死後、神となり関八州を守る

連載・宗教から家康を読む(最終回)
多田則明

 

日光東照宮の奥宮にある家康の墓

 東京の北東にある日光は、日本を代表する観光地として外国人にも人気の世界遺産である。その中心にある日光東照宮は、「死後、神となり関八州を守る」として東照大権現になった徳川家康を祭る神社で、家康は東照宮本殿の裏にある奥宮の墓所に眠っている。関八州とは、鎌倉を中心に箱根より東にある8か国で、相模、武蔵、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)のこと。
 日光は奈良時代、今の栃木県真岡市に生まれた勝道(しょうどう)上人が、3年にわたる修行の後に二荒山(ふたらさん)に登り、修験道の山として開いた神仏習合の山岳信仰の聖地である。後に熊野修験の修法を取り入れ、室町時代に独自の修験道として発展した。
 その後、日光は500以上の寺院が建ち並び、山岳信仰の霊場として栄えたが、戦国時代、当地を管理していた北条家が豊臣秀吉に滅ぼされたため衰退する。
 その日光を、家康が自身の遺体を葬り、神格化された自分を祀る場所として選んだのである。日光にある天台宗の輪王寺(りんのうじ)は奈良時代の創建で、家光の時代から皇族や公家が住職になる門跡(もんぜき)寺院。江戸時代までは総称して「日光山」と呼ばれていた。
 今の静岡市にある駿府城で大御所政治を行った後、75年の生涯を閉じた家康は、「一周忌が過ぎたら、日光山に小さな堂を建て、神として祭れ」と遺言した。自身の没後も徳川幕府と江戸を守るために、家康は日光に眠ることを願ったのである。
 そして、後水尾(ごみずのお)天皇から東照大権現の神号が贈られると、二代将軍秀忠が東照社を建て、それを三代将軍家光が立派に建て直したのが今の日光東照宮である。
 家康が死後の自分を祭る場所として日光を選んだのは、江戸の「鬼門」の方向に当たるからで、陰陽道で北東(丑と寅の間)は鬼が出入りする鬼門になっている。
 家康の没後、権現と明神のいずれの神号を賜るべきかが天台僧の天海と臨済宗の崇伝の間で争われ、不遇な最期の秀吉が吉田神道に基づく「豊国大明神」だったため明神は不吉とされ、天海が推す比叡山の山王一実神道により薬師如来を本地とする権現とされた。
 後に、東照社は東照宮となり、さらに正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として「東照大権現」とも呼ばれ崇拝されるようになる。日光東照宮を今のような立派な社殿に整えたのは三代将軍の家光である。
 家康の側近として幕府の宗教政策に大きな影響を与えた天海は謎の多い人物で、若いころの事績は不明。そのため、明智光秀=天海説まであるが、年齢的に不可能である。天海は星見や陰陽道も習得しており、家康を明神とするのはあまりにも恐れ多く、神が仮に現れたという権現がふさわしく、東照大権現として祀るのは神道からも認められると考えたのだろう。
 当初、日光東照宮は江戸の守り神だったが、幕藩体制が整うにつれて、全国の有力大名が東照宮を建てるようになり、それぞれの国の守護神に発展し、今では約700の東照宮が各地にある。家康が最初に祭られた静岡の久能山東照宮と日光東照宮、そして生誕地・岡崎城の鬼門封じとして創建された滝山東照宮が日本三大東照宮とされている。
 家康が最も尊敬していたのが鎌倉幕府を開いた源頼朝で、家康は鎌倉時代の国史である『吾妻鑑(あづまかがみ)』を全国から収集・復元し、愛読していた。
 第3代執権北条泰時は武士の倫理綱領として「御成敗式目」を初めて制定した。51条からなり、第1条は神社を修理して祭りを大切にすること、第2条は寺や塔を修理して、僧侶としての務めを行わせること。神仏習合の日本人の伝統的な信仰が明文化されており、それを戦国時代を終わらせ、平和が続いた江戸時代に定着させたのが家康だった。

(2024年2月10日付 8087号)