生きる意味を問い続けて
2024年5月10日付 811号
NHK「こころの時代 宗教・人生」で4月21日から、「ヴィクトール・フランクル それでも人生には意味がある」が始まった。講師は日本ロゴセラピスト協会会長の勝田茅生(かつた・かやお)さん。ドイツ・ミュンヘン大学に留学してロゴセラピストの資格を取り、日本でもロゴセラピー入門ゼミナールを開催している。
ヴィクトール・フランクルはユダヤ人強制収容所での過酷な体験を記録した『夜と霧』で知られるが、死への誘惑から彼を引き戻し続けたのは、若いころから求めてきた「生きる意味」を見つけるための療法、「ロゴセラピー」の著作を完成することだったという。「ロゴ」は古代ギリシャ語の「ロゴス」に由来し、「言葉・論理・思想」と訳されるが、フランクルは「意味」として使っている。
人生が待っている
1905年、ウィーンで信仰深いユダヤ人の家に生まれたフランクルは4歳の頃、「自分もいつかは死ななくてはいけない」と考え、愕然としたという。死によって「生まれたことの意味」が消えてしまうのであれば、なぜ人は生きなければならないのか。小学校入学前から、母親に質問するようになり、14歳の時には、「有機体の生命は、生化学的酸化の過程に過ぎない」と教える教師に、「それでは、生きることにどういう意味があるのか」と質問している。
同時代、ウィーンに住んでいたフロイトや弟子のアドラーに学びながら、人間はどんな状況においても、何らかの意味を見いだしながら生きるのが本来の在り方だという考えにたどり着いたという。
第一次大戦後、ヨーロッパでは反ユダヤ主義が高まり、ロシア革命を経て社会主義が流行する中、フランクルは一時期、ショーペンハウアーやニーチェらの悲観的な哲学に傾倒しながら、15歳の頃からニヒリズムに反論するようになり、人生に肯定的なハイデガーやマルセル、ヤスパースなどの実存主義に移る。
そして、ウィーン大学で精神医学を学び、二十歳過ぎから若者のメンタルケアの無料相談所を開設している。とりわけ、毎日十人も運ばれてくる自殺未遂のユダヤ人に、「人生にはきっと何かの意味がある。人生はそれまであなたのことを待っているから、苦しくても、そこから逃げてはいけない」と励まし続けたという。
「人生が私を待っている」という発想は、フロイト的な心と体のほかに「精神」をフランクルは設定したから。そうした高見からの視点で自分を見ないと、生きる意味を見つけることはできない。それはユダヤ教の神ともいえるが、それ以上に普遍的な存在である。
「仏性があるのに、人はなぜ修行しないといけないのか」という疑問を抱いた道元が宋で学び、「仏性があるから修行できる」と悟ったのも、似たような視点の転換であろう。共通しているのは、私がどう生きるかを見ている、もう一つの目である。それを意識することで人は自分を客観視し、相対化し、絶望の淵から抜け出すことできる。
悟りや救いを目指すのが宗教だが、では「救い」とは何か。天国や浄土など苦しみのない世界にいることではなく、常に変わる状況の中で、的確に対応できていること。今そこに存在する者としての「責任」を果たすことであろう。責任とはレスポンス、応答であり、そうした応答関係の無限のつながりによって社会は機能している。そんな集団を形成したから、人類は存続し続けているのである。仏教が説くように、宗教は今を生きる知恵と力を人々に与える役割がある。
コペルニクス的転回
勝田さんは、人生における「コペルニクス的転回」を提唱している。ロゴセラピーに置き換えると、地球は「自分」で、太陽は「意味」だと。人生が自分に何をしてくれるのかを問うのではなく、「自分が人生のために何ができるか」を考えるのがロゴセラピーにおけるコペルニクス的転回である。
誰かのために、何かの役に立つとうれしいのは人間の本性で、フランクルはそれを「意味への憧れ」と表現している。意味を知覚する感覚器官が「良心」で、常に意味のある行動をするには、良心のアンテナをしっかり立てることだと。
そのために勝田さんは、「まなざし」を外に向けることを勧めている。まなざしを内に向けると自己中心的になりがちだが、外に向けると、いろいろな要望が見えてくる。それに応えていくことで、相手と自分も喜び、あたりは和やかになる。宗教を超えた普遍的倫理は意外と身近にある。