防災は地域づくりから

2024年2月10日付 808号

 地震発生から1か月以上を経過した能登半島の現状は、復興への数多くの課題を私たちに投げかけている。程度の差はあれ、同じような自然環境の日本列島に暮らす私たちにとって、防災・減災は地域づくりの基本であることを改めて教えられた。
 身近な人の死を悼む心情に発し、共に暮らす人々の和を保つ祭祀として発展してきた宗教は、「救い」を教えの核とすることにより、広く人々の心に受け入れられ広まってきた。社会の発展に伴い、「救い」の内容は、疾病は医療、貧困は経済、平和は政治と、それぞれの分野で進められ、宗教の担当は人々の生き方に集約されてきている。社会を形成して生きる人としての、個人、家庭、地域での在り方である。

日本的風土の地域
 日本のボランティア元年とされる1995年の阪神・淡路大震災では、地域性を軽視した復興住宅での災害関連死が問題となった。その経験から、2011年の東日本大震災では、地域社会を維持しながらの復興住宅建設が目指され、東北学を提唱した民俗学者の赤坂憲雄・学習院大学教授(福島県立博物館館長、当時)は、「被災地のいたるところで宗教が露出している」と語っていた。人は個人としての尊厳を守りつつ、家庭や地域社会と共に生きているのである。
 従来の欧米発想のコミュニティーは、人間だけの、しかも生きている人だけの地域社会が論じられてきたが、日本の風土には当てはまらない。柳田国男が指摘したように、日本の町は自然と一体で、さらに、そこに鎮まる先祖たちも参画したコミュニティーこそが、ふるさととしての地域社会である。そこに郷土愛が生まれ、アイデンティティーも形成され、住民の絆が強まる。そうした文化的でスピリチュアルなコミュニティーが人々の生きる力となる。実際、祭りや郷土芸能、先祖供養、自然への鎮魂を通して、広い意味でのいのちとの交流をもったコミュニティーづくりが被災地の復興に効果的だった。
 気候変動の影響からか、近年は「災害は忘れたころにやってくる」のではなく、「忘れないうちにやってくる」ようになった。そこで、災害に強い地域づくりが課題になっている。防災には「自助・共助・公助」と言われるが、能登ほどの災害に見舞われると、当初、公助はほぼ期待できない。当面は、自助・共助によって生き延び、心が折れないようにするしかないのである。
 地域防災計画作りで重要なのが高齢者など災害弱者への対策である。それぞれに応じた支援者や避難先、避難路の確保が福祉委員などによって進められているが、個人のプライバシーを守りながら、日常的な接触、交流の大切さが再認識されている。要は近所づきあいで、日頃から事情をよく知っているから災害時の支援もしやすい。
 淡路市にある北淡震災記念公園の野島断層保存館での被災者の話によると、当時は近所の人が家のどの部屋で寝ているか知っていたので助けやすかったが、その後、個人主義化や少子高齢化が進み、それができなくなっているということだった。これは全国どこでも同じだろう。そこに宗教の役割が期待される。
 仏教史を見ても分かるように、宗教の教えは最終的に利他的な世俗倫理に帰着するようになる。利他が自利につながるという論理は後付けで、人は利他的に生きる、自利的には生きられないようになっているというのが宗教的人間観であろう。心より体が先に利他的に振舞うようになっているのであり、それゆえ大きな社会を形成できたのである。
 ところが行政は自利的な個人を想定して制度設計されているので、民間が補わないと利他的な社会は実現されない。予算や規則に縛られる行政は、民間の力を借りないと地域社会を守れないのが現状なのである。

地域は救いの場
 二度にわたる豪雨災害を受けた広島市である学区の自主防災連合会を立ち上げた元消防士は、若者や子供たちが防災活動の先頭に立つことで、大人たちも参加するようになったという。いつの時代でも、好奇心旺盛な人たちが社会の先端を切り開くのである。小学校での防災教育がその始まりで、学区ごとの方がまとまりがよい。
 考えてみると、周りの人たちや自然環境も自分の一部という感性は、子供たちにとって当然のことだろう。だから、体も自然と利他的に動く。それが大人になるに従い、考えてからでないと利他的には動けなくなる。イエスの言う「幼子のように」というのは、そういうことかもしれない。そうであれば、地域づくりは自分づくりであり、そこにおいて利他と自利は一つになっている。道元の悟り「仏性があるから修行できる」を一般化すると、「利他の修行ができるのが救い」となろう。そうした修行の場が地域なのである。