朝鮮通信使が寄港した室津

連載 神戸・摂津・播磨歴史散歩(5)
生田神社名誉宮司 加藤 隆久

家康が再開
 徳川家康は江戸幕府を開いてすぐ、戦乱で断絶した朝鮮国との国交を回復しようと、対馬の宗氏を通じて朝鮮に通信使の派遣を要請した。
 朝鮮通信使の本来の趣旨は、室町将軍からの使者と国書に対する返礼で、1375年に足利義満によって派遣された日本国王使に対し、信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まり。当時の朝鮮にとっては日本の国情を探り、倭寇の取締りを要請することも重要な目的で、1596年までに6回派遣されている。
 家康が通信使の派遣を要請したのは、何より江戸幕府を国際的に認知させ、承認を得て、諸大名に対する権威を高めるためである。しかし、豊臣秀吉の朝鮮出兵を受け、日本に対する疑念が強かった朝鮮は、1604年にまず探賊使(敵国の情勢を探る使者)として僧・惟政(ユジョン)を派遣した。家康は惟政に国交回復の意向を伝え、文禄・慶長の役で日本に連行された儒家や陶工などの捕虜1300人を帰国させている。これによって朝鮮は幕府を信頼し、通信使の派遣となったのである。
 以後、1811年まで将軍の代替わりの祝賀などに12回派遣されるが、第3回までは捕虜の送還が主目的なので「回答兼刷還使」と呼ばれ、第4回から朝鮮通信使となる。

室津に寄港
 通信使一行約500人は漢城(ハンソン 現・ソウル)から陸路で釜山に着き、そこから船で、対馬、赤間関(下関)、蒲刈、鞆(鞆の浦)、牛窓、室津などを経由して大坂に入り、淀川をさかのぼって京都で陸に上がり、以後はほぼ東海道を通って江戸に至る。江戸からの帰路、駿府城で一行を迎えた家康は、駿河湾を遊覧するなど接待に努めている。

室津港

 室津は『播磨国風土記』に「此の泊 風を防ぐこと 室の如し 故に因りて名を為す」と記され、三方を山に囲まれ、古来より天然の良港であった。奈良時代には、行基により摂播五泊(室生泊=たつの市御津町、韓泊〈福泊〉=姫路市的形町、魚住泊=明石市大久保町、大輪田泊=神戸市兵庫区、河尻泊=尼崎市神崎町)の一つに定められ、以後海の駅として栄えた。
 高倉天皇に従い厳島神社に参拝する平清盛は室津に寄港し、賀茂神社に海路の無事を祈っている。讃岐に流される法然上人は、往き帰りの二度立ち寄り、足利尊氏は見性寺で戦の作戦を立て直し、孫の義満は厳島神社参詣のため寄港している。
 1607年の第1回朝鮮通信使を室津で迎え、接待したのは姫路藩である。室津に入港した通信使船は、青地に赤色で「正」字を染め入れた正使船を中心に船着場に係留され、対馬藩の川御座船並びに大小さまざまな船が湾内を埋め尽くしていた。三使らは、迎賓館となった藩主の別荘、お茶屋に、中官は浄静寺に、下官たちは寂静寺、徳乗寺に宿泊した。姫路藩の迎接に、正使趙は海槎日記に「牛窓、鞆の浦よりも全てにおいて勝り、正使付き添いの小童にまで饌果が出された」と記載されている。

朝鮮通信使小童図(一部、江戸中期、18世紀、大阪歴史博物館所蔵)

 たつの市立室津海駅館・室津民俗館では、第5代将軍徳川綱吉の将軍襲職慶賀のため、1682年に来朝した通信使の正使を饗応した料理の複製が展示されている。
 以後、朝鮮通信使を迎えた施設を利用して室津は国内有数の港町として発展した。1635年に参勤交代が制度化されると、九州、四国、中国地方の西国大名は海路を利用し、ここ室津から陸路で江戸へ向かった。明石海峡は遭難事故が多かったからである。大名行列は小藩で200人、大きな藩になると400人を数えたので、乗船・上陸地点の室津は賑わうようになった。さらに干いわしなどを満載した北前船も入港し、町は活気が満ちるようになる。諸大名が宿泊する本陣が6軒、脇本陣を兼ねた豪商の邸、宿屋、揚げ屋、置屋などが軒をつらね、「室津千軒」と呼ばれた。しかし明治以降、陸上交通の発達により室津は衰退する。
 鎖国政策の江戸時代の日本人にとって通信使は、あこがれの中国文化に触れることのできる数少ない機会であった。宿泊先には地元の文人墨客らが押し寄せ、筆談で漢詩や意見の交換をした。通信使一行には楽団や芸人も含まれていて、岡山県瀬戸内市牛窓には通信使をまねたとされる子供の唐子踊りが今も残されている。通信使がモデルになった人形や絵馬なども全国各地にあり、当時の日本人にとって珍しい異文化体験、国際交流だったことがうかがえる。

江戸時代の異文化交流
 日韓の民間団体が共同で登録申請していた「朝鮮通信使」の資料が2017年、ユネスコの「世界の記憶」(旧・記憶遺産)になった。これに先立ち、大阪歴史博物館で2016年2月から4月にかけて、特集展示「辛基秀コレクション 朝鮮通信使と李朝の絵画」が開催された。辛氏は研究のかたわら、まだ注目する人が少なかった通信使を描いた絵画などの収集を行い、同時代の朝鮮の民画屏風等を含め140件のコレクションをつくりあげ、全点が同博物館の館蔵品となっている。

たつの市立室津海駅館・室津民俗館に展示されている朝鮮通信使饗応料理の複製

 明治以降、朝鮮通信使の存在は長らく忘れられていたが、1970年代後半から光が当てられ始め、現在では歴史の教科書に載るまでになっている。その朝鮮通信使研究をリードした一人が大阪在住の映画監督で研究者の辛基秀(シン・ギス1931〜2002)氏である。辛氏は1931年、在日一世の父親の故郷である韓国慶尚南道馬山市に生まれ、生後数か月で京都市右京区の嵯峨野に移った。苦学生だった父は無産者運動や朝鮮独立運動に身を投じ、警察に行動を監視されていた。辛少年は父親との接触は少なく、地元の嵯峨野小学校に入学し、日本人の子供たちと仲良く遊び、時代の空気から軍国少年に成長していった。日本の敗戦は韓国では光復で、朝鮮人たちが太極旗を振りかざす姿を見た当時14歳の辛氏は「京大や同志社、立命館の学生にも朝鮮人がたくさんいるのに驚きました。世の中がいっぺんに広がった気分でした」と回想していた。
 神戸大学に進学した辛氏は大学院中退までの8年間の大半を学生運動に費やす。学生自治会の委員長としてレッドパージ反対闘争をリードする一方、朝鮮通信使への関心も芽生えた。その後、朝総連でドキュメンタリー映画の制作に携わっていたが、「イデオロギー対立から離れ、自由な立場で活動したい」と組織を離れ、朝鮮通信使の研究を本格的に始めた。
 辛氏の関心は学術的な文献より絵画や書、人形、踊りなどの具体的な事象。それらは朝鮮通信使の影響が庶民レベルにも行き渡っていたことを示していた。その成果は、1979年に制作した記録映画『江戸時代の朝鮮通信使』となって結実した。
 コレクションの中で辛氏が一番好きだったのは朝鮮通信使小童図。通信使一行の小童が、近づいてきた日本人の持つ紙に、馬上から揮毫している様子を描いた英一蝶(はなぶさ・いっちょう)の作で、通信使と日本人の交流が生き生きと表現されている。

(2024年7月10日付 813号)