紙の神を祀る岡太神社・大瀧神社

連載・神仏習合の日本宗教史(22)
宗教研究家 杉山正樹

岡太神社・大瀧神社。複雑な屋根の構造をもつ下宮の拝殿と本殿

 清冽な水で漉き上げられる手漉き和紙は、神聖なもの、穢れのない紙=神に通じる貴重な伝統文化として、日本文化に欠かせないものになっている。幾つかの紙里には、貴重な紙祖伝説が遺るが、その中で最古のものとして伝わるのが、越前国五箇地区(現福井県越前市大滝町)に鎮座する岡太(おかもと)神社である。
 今から1500年ほど前、越前出身の継体天皇(450~531)がまだ男大迹皇子(をほどのおうじ)といわれ、この地に潜龍しておられていた頃、岡太川上流、水清き宮ヶ谷に美しく高貴な姫が現れた。
 「この村里は谷間で田畠が少なく生計を立てるのは難しいが、清らかな谷水に恵まれているから紙を漉くのがよかろう。」
 自ら上衣を脱いで竿に掛け、村人に紙漉く技を教えた。喜んだ村人が御名を尋ねると「岡太川の川上に住む者よ。」とのみ申されその姿がかき消えたという。それ以来、村人たちはこの女神を「川上御前」と崇め、地主神として宮垣の地に祠を建て紙の祖神として斎(いつ)き祀った。これが岡太神社の起源である。それ以来、五箇村の人々は、今日まで途絶えることなく「川上御前」と共に紙漉きを続けてきた。岡太神社は「延喜式神名帳」(926)に式内社としてその名が登場し、「川上御前」は万物を産み出し育てる水の神、子育ての神としても信仰された。

岡太神社の春祭り

 時代が下って養老3年(719)、白山を開山した修験者で越の大徳・泰澄が当地を訪れた。泰澄は「川上御前」を守護神、推古天皇の御代に大伴連大瀧が勧請した国常立尊・伊弉諾尊を主祭神、十一面観音菩薩を本地仏とする神仏習合の霊場を拓く。大瀧兒大権現(おおたきちごだいごんげん)と称された別当寺・大徳山大瀧寺の創建である。以後、白山信仰の本山である平泉寺の末寺として隆盛を極めた。
 神仏習合の霊場となった大瀧寺であるが、南北朝・戦国の世では、歴史の波に翻弄される。南朝側に付いていた大瀧寺は、北朝の斯波高経の猛攻に遭う。その後、朝倉氏によって再興されたが、織田信長の越前攻略で48坊の堂塔が灰燼に帰した。明治期の神仏分離令では、大瀧寺は大瀧神社と改称され多くの仏像が散逸した。
 岡太神社・大瀧神社は、霊山大徳山の山上にある「奥の院」と山の麓にある「下宮」から構成される。「奥の院」では岡太神社・大瀧神社それぞれの社殿を持つが、「下宮」では両社の社殿は共有され、しかも本殿と拝殿が一体となった大変複雑な屋根構造となっている。江戸時代後期の天保年間に再建されたものだが、技術の粋を尽くす精巧な作りが異彩を放ち、「日本一複雑な屋根」として国の重要文化財に指定されている。
 毎年5月3日から行われる岡太神社・大瀧神社の春祭りは、古いしきたりを今に受け継ぐ。初日に「奥の院」から「川上御前」が神輿に乗って山を「おおり」になり、二日目に紙能舞や湯立神事が行われる。三日目には、渡り神輿が各地区を巡幸し、最後に再び「川上御前」が「奥の院」へ「おあがり」になる。この他、33年毎の「式年大祭(御
開帳)」、50年に一度の「御神忌(中開帳)」も今に受け継がれる。御神忌では、「法華八講」という神仏習合の儀式を今もそのままの形で厳修している。

春祭りの紙能舞


 仏教の普及に伴う写経用紙の需要増、701年に始まる大宝律令による戸籍の記録保存が、全国の紙里の発展を促した。従来まで紙の発明は、後漢時代の蔡倫とされてきたが、近年の発掘調査でそれ以前に作られていたことが判明している。また日本への伝播については、高句麗僧の曇徴(610年)とされていたが、それ以前に既に紙漉きの技術が存在していたという説も指摘されている。
 和紙の三大産地と言えば越前・美濃・土佐が知られているが、越前和紙はとりわけ品質が高く重宝されていた。正倉院には、越前和紙に書かれた730年前の資料が保管されている。越前の和紙産業は、大瀧寺からの保護を受けて同業者組合「紙座」が結成され急速に発展した。明治になっても衰えることなく、大正時代には大蔵省印刷局抄紙部に「川上御前」の分霊が祀られた。このため岡太神社は、全国和紙業界の総鎮守とされている。日本で初めて「紙幣」を作ったのも福井藩、また現在の紙幣に用いられている「黒透かし」技術も越前和紙職人が開発したものである。
 手漉き和紙の制作に欠かせないものが、清冽な水と良質な木皮の確保であるという。西洋紙の普及に押されているが、和紙の強度と保存性は、その品質の高さから国際的な評価を得ており、世界の文化財の修復にも活躍している。神によってもたらされた紙つくりの里は、和紙(日本の神)の文化を今に伝えている。
(2024年2月10日付 808号)