樋口季一郎/ユダヤ人を救い、北海道を守る

連載・愛国者の肖像(16)
ジャーナリスト 石井康博

樋口季一郎

 

 樋口季一郎は明治21年(1888)、淡路島南端の兵庫県三原郡阿万村(現南あわじ市)で父・奥濱久八と母・まつの長男として生まれた。実家は江戸時代からの廻船問屋だったが、衰退しかかっていた。同35年に大阪陸軍地方幼年学校に入学し、樋口家の養子に入った叔父・勇次の養子になった。
 明治42年(1909)に陸軍士官学校を、大正7年(1918)に陸軍大学校を卒業し、翌年には陸軍大尉に昇格、参謀本部の第二部ロシア班に配属となった。陸軍大学校でもロシア語を学んでいたが、外国語学校の夜間部に通い、陸軍内でのロシアの専門家としての道を歩んだ。
 ロシア革命後のシベリア出兵に伴い、特別機関員として大正9年1月にウラジオストクに赴任。ロシア系ユダヤ人の家族と知り合い、ロシア語を学びながらユダヤ人への理解を深め、ハバロフスク赴任後、帰国した。
 大正14年には公使館駐在武官としてポーランドに赴任し、懇意のソ連駐在武官の計らいでソ連のビザをもらい、約1か月ソ連国内を旅行した。グルジアで一人の老いたユダヤ人から、「太陽の昇る、東方の国である日本には天皇がいて、仁愛の強いお方であると聞いている。私は天皇こそ私たちが待ち望んでいるメシアのようなお方ではないかと思う。ユダヤ人が悲しい目にあった時に日本人が救ってくれるに違いない」と言われたのが、樋口の生涯に大きな影響を与えることになる。
 昭和12年(1937)5月、樋口は独ソの情報を得るためドイツに赴任した。7月に盧溝橋事件が起きたので帰国、8月に特務機関長としてハルビンに赴任、少将に昇進した。12月、ハルビン・ユダヤ協会会長のアブラハム・カウフマン博士が来て、ハルビンでの第1回極東ユダヤ人大会の開催許可を求めた。ドイツでユダヤ人の惨状を目の当たりにした樋口は快諾し、日独防共協定を結んだドイツを過度に刺激しないよう個人の資格で大会にも参加した。
 12月25日から開かれた大会で、日本と満州から集まったユダヤ人代表者の前で、樋口は祝辞を述べ、ユダヤ民族に対する理解と同情の意を表し、聴衆から割れんばかりの拍手を受けた。その様子が日本国内で報道されると、ドイツ大使館から抗議が来たが、樋口は動じなかった。米国との関係が悪化する中、友好関係を保つためにもユダヤ人たちとの関係は必要だと考えたからだ。
 翌年1月に開かれた謝恩会でも、「ユダヤ人を追放するなら、彼らに土地を与えないといけない」と人道主義的な演説をし、観衆の涙を誘ったという。記者会見でも、弱きを助けるのが日本人だと話し、各国の記者たちが樋口の演説を報道した。
 同年3月10日、満州国と国境を接したソ連のオトポール駅(現:ザバイカリスク駅)でナチスから逃れた大勢のユダヤ人難民がテントを張って待機しているという情報が伝わった。ソ連はユダヤ人に通過ビザは出すが滞在許可は出さなかったので、樋口のいる満州に逃れてきたのだ。ところが、満州国はドイツとの関係から入国を拒否し、凍死者も出ていた。「オトポール事件」である。
 満州国建国の理想「五族協和」や天皇の考えを推測し、樋口は身を挺して彼らを救う行動に出た。即座に難民に対する食糧、衣類、燃料を提供し、カウフマン博士に難民の受け入れ準備を求めた。満州国外交部を説得して入国を許可させ、満鉄の松岡洋右総裁に頼んで、特急「あじあ号」を救援列車としてオトポールに近い満州里に送った。「ユダヤ民族基金」によると、救われたユダヤ難民の数は2万人と言われ、彼らの多くは上海経由でアメリカに渡った。
 ドイツのリッベントロップ外相の抗議により、関東軍司令部に呼び出された樋口は、当時の参謀長の東条英機中将に、日露戦争での資金調達を助けてくれたのはユダヤ人で、明治天皇が「この恩は決して忘れない」と述べたことに言及し、「今こそその御心通り恩を返す時で、日本はドイツの属国ではない」と話した。東条は納得し、陸軍省は不問に。東条は樋口の毅然とした態度を気に入り、5カ月後には東京の参謀本部に転属となった。ハルビンを離れる樋口を2千人のユダヤ人が見送ったという。昭和16年には樋口の名前が、ユダヤ民族に貢献した人を記した聖典「ゴールデンブック」に記載された。
 その後、樋口は第9師団の師団長を経て、昭和17年8月に札幌に司令部のある北部軍司令官となった。日本軍がアッツ島、キスカ島を占領した直後である。米軍は反撃に転じ、翌18年5月12日にアッツ島に上陸、大本営は4千人の増援を決定するが、ミッドウエー海戦後、戦力消耗が続いている海軍の協力が得られず、同月20日に増援が中止された。
 樋口はキスカ島からの撤退を大本営に認めさせ、キスカ島救出作戦は奇跡的に成功し、無傷での撤退に成功した。しかし、アッツ島では300人の守備隊が総攻撃をかけ、玉砕した。
 昭和19年、第5方面軍(以前の北部軍・北方軍)の司令官になった樋口はソ連に対する警戒を怠らなかった。同20年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破って宣戦布告し、16日には樺太、千島列島に加えて北海道の半分を要求。18日には千島列島最北端の占守(しゅむしゅ)島に侵攻した。
 堤不夾貴(ふさき)第91師団長から連絡を受けた樋口は反撃を命じ、上陸するソ連軍に大きな損害を与えた。日本軍の抵抗によりソ連は北海道の占領を諦め、22日にはスターリンからトルーマンにその旨伝えられた。もし北海道の半分がソ連軍に占領されていたら、今のウクライナのようになっていたかもしれない。樋口が日本を救ったのだ。
 戦後、ソ連は樋口を戦犯に指名し、引き渡しを要求したが、マッカーサーは拒否した。米国防省に米国ユダヤ人会議が働きかけたからで、幹部の中にはオトポールで樋口に助けられた人がいたという。その後、樋口は米軍の特別顧問就任の要請を断って隠遁し、昭和45年10月11日、老衰で死去した。享年82。
 樋口は生涯を通して天皇陛下への忠誠を貫き、多くのユダヤ人の命を救うと同時に、北海道をソ連から守った愛国者であった。軍事機密の故、彼の功績は隠されてきたが、顕彰の動きが今、展開されている。

(2024年2月10日付 808号)