葵祭・斎王代の御禊の儀─瀬織津姫が罪穢れを押し流す

連載・京都宗教散歩(27)
ジャーナリスト 竹谷文男

斎王代は葵祭の前に御禊の儀を行う=令和5年5月、京都市北区上賀茂神社

 かつて伊勢神宮や賀茂神社(京都市内の下鴨神社、上賀茂神社)に巫女として奉仕した斎王は、天皇がもっとも愛する自分の娘から選んだといわれている。現在の京都の葵祭においては斎王の代わりに「斎王代」が、京都の未婚女性から選ばれ、巡幸列の華として京都御所から両賀茂社へと進む。この斎王代は葵祭の前に水に手を浸して身を浄めるが、この御禊の儀は上賀茂神社(賀茂別雷神社、北区)と下鴨神社(賀茂御祖神社、左京区)が一年ごとに交代で担当する。今年は下鴨神社の番で、その境内末社井上社の真下にある井戸から流れ出る水に斎王代は手を浸す。
 この井上社の祭神は瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)である。上賀茂神社の場合は、斎王代が手を浸す流れの下手に、同様に瀬織津姫神を祭る境内末社梶田社が鎮座している。つまり、両賀茂社とも斎王代の御禊の儀には、瀬織津姫という神が関わっている。
 瀬織津姫という神名は『記紀』(『古事記』『日本書紀』)には全く現れないが、罪や穢れを押し流す神として神事において唱える『大祓詞(おおはらいのみことのり)』に現れる。その一節に「(のこる罪はあらじと)〜佐久那太理(さくなだり)に落ち多岐(たぎ)つ 速川の瀬に坐(ま)す瀬織津姫という神 大海原に持ち出でなむ〜」と、瀬織津姫が罪穢れを流す祓戸(はらいど)の神であることを唱っている。
 この大祓詞に現れる「佐久那太理」に近い名を持つ神社としては、滋賀県大津市大石に鎮座する佐久奈度(さくなど)神社がある。佐久奈度神社は、琵琶湖から南に流れ出る瀬田川の激流が立木観音を過ぎて西にゆるやかに転じようとするあたりに今はあり、祭神は瀬織津姫である。瀬田川はその後、宇治川、淀川となって大阪湾に流れ出る。このように瀬田川の流れは「(罪穢れを)大海原に持ち出でなむ〜」という大祓詞の“絵”に収まる。佐久奈度神社の名称、置かれた風景、そして祭神は大祓詞に符合する。

瀬織津姫を祭る佐久奈度神社=滋賀県大津市大石

 さらにまた、同神社の近くには桜谷という川があって瀬田川に合流するが、他の瀬織津姫を祭る神社でも近くに「桜谷」という谷がある場合が多い。桜谷の名は「佐久那太理」がなまったものではないかと感じられる。
 佐久奈度神社の社伝によると同社は、朝廷が飛鳥から近江大津宮に移った天智天皇7年(668)の翌8年(669)、勅願を受けて中臣朝臣金連(かねのむらじ)が社殿を造り、「祓戸の大神」を祭ったのが始まりだった。同社は、平安時代になってから唐崎神社(滋賀県大津市唐崎)と共に天皇の厄災を祓って平安京を守護する「七瀬の祓所」の一つとなり、『延喜式神名帳』にその名が記されている(式内社)。古来、伊勢神宮に参拝するには先ず同社で禊ぎをするのが習わしとされ、同社の鎮座する「大石」の地名は、伊勢詣での祓所の意である「忌伊勢 (おいせ)」が訛ったものとも言われる。
 『近江の国風土記』逸文によると佐久奈度神社は、「忌伊勢左久那太李神。所祭瀬織津姫也」と書かれている。ここで「忌伊勢」の「忌」を、もしも「忌む」という動詞と解釈したとしても、伊勢の左久那太李神の名を避けて瀬織津姫と呼んでいるので、両神は“異称同神”を意味する。いずれにしても伊勢神宮の左久那太李神と佐久奈度神社で祭られている瀬織津姫とは、同じ神を意味することになる。
 佐久奈度神社について注目すべきことは社伝によると、神道での祝詞である『大祓詞』の元となった『中臣大祓詞』が、同社で創られたことだ。文武天皇の時代、勅命によって『中臣大祓詞』から抜粋されて『大祓詞』が創られ、今も各地の神社で6月と12月の晦日に『大祓詞』が奏上されて大祓祭が斎行されている。
 では、『中臣大祓詞』が創られた背景はどのようなものだったのだろうか。佐久奈度神社が創建される6年前の天智天皇2年(663)、百済再興をかけて天智天皇は兵士2万7千人を軍船に乗せて朝鮮半島の西海岸に送りこみ、現在の錦江の河口あたりで唐・新羅連合軍と戦った。これが白村江(はくそんこう)の戦いである。しかし、日本・百済連合軍は大敗し、百済再興の夢は断たれ、天智天皇7年(668)には高句麗も滅んだ。
 日本は唐の脅威に備え、国内の体制を整えることが急務となった。政治的には律令体制であり、宗教的には天皇を中心とする祭祀の枠組みを整えることだった。そのため天智天皇9年(670)、戸籍(庚午年籍)が造られて律令体制へと踏み出すとともに、その前年、大祓詞の基となる『中臣大祓詞』が神祇を司る中臣金連によって造られ、その中で瀬織津姫が祓戸大神であることが明記された。
 瀬織津姫は『記紀』には全く名が現れない神であるが、そのような神が罪穢れを押し流す神として律令制の成立時期に『中臣大祓詞』に突然現れたのはなぜだろうか。これは、『記紀』に記載されていた何らかの神が称揚されて「瀬織津姫」の名で初めてのようにして現れたのだろうか、あるいはそれよりも高い神威を有していた神であったが貶められ降格されて「瀬織津姫」として現れたのだろうか?
(2024年2月10日付 808号)