宗教法人法の目的に反していないか

家庭連合(旧統一教会)の解散命令請求

杉原誠四郎・元武蔵野女子大学教授に聞く
杉原誠四郎氏

 昨年10月13日、文部科学省は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に対する解散命令を東京地裁に請求し、受理された。刑事事件もなく、民法上の不法行為を根拠とした解散命令請求は今回が初めてで、司法が解散の可否をどのように判断するかが焦点。この請求は信仰の自由の侵害であるとの非難の声は国内外から上がっている。日本国憲法で保障されている信教の自由の観点から同解散命令請求は妥当なのか。政治と宗教のかかわりや宗教法人法に詳しい元武蔵野女子大学教授の杉原誠四郎氏に伺った。(石井康博)

信教の自由とは
 ――宗教の存在意義と信教の自由についてどのようにお考えですか。
 人間というものは生きようとしながらも死を避けられない有限な存在ですが、最上位の霊長類たる存在として、自分の存在の意義について考える存在です。考えるといっても自然科学的には答えは出てきません。人間は生きようという衝動の下に願い事を常に持っており、自分の存在意義を追究し、答えを求めようとします。それが宗教の根源でしょう。そうして存在意義を追究した結果は、人によってとらえ方が変わることになります。私は仏教徒ですが、宗教は人によって異なります。
 ――お祭りなどの伝統文化と信教の自由についてはどう思われますか。
 人にとっての信教の自由とは、自分の信仰しない宗教の儀式や儀礼に参加を強制されないということでもあります。日本国憲法に定める政教分離の規定では、個人が祭祀を宗教と見る自由を持ち、それゆえいかなる祭祀にも参加を強制されることはありません。しかし、祭祀には社会性、公共性があります。戦後すぐの時代でも、占領軍であるGHQ(連合国軍最高司令部)は日本国憲法の下、地域の神社が公道を使って地域の伝統の祭祀を行うことを禁止するような指示を出したことは一度もありませんでした。祭祀には厳とした公共性があり、宗教の中で特殊に扱わないといけないとしたからです。日本国民の象徴である天皇が宮中で行っている祭祀にも公共性があり、天皇はそれゆえに国民統合の象徴として厳粛に天皇の祭祀を行っています。個人としてはそれを宗教と見る自由があるので、そうした祭祀への参加を強制することはできません。
 しかし、個人に祭祀を壊す自由は与えられていません。そういう考えで日本の政教分離がなされていることを、日本の宗教関係者は十分理解すべきです。GHQは日本の宗教文化を壊さないため、日本国憲法に祭祀を宗教として見る個人の自由を与える一方で、祭祀を壊すことを許さなかったのです。

解散命令請求は妥当か
 ――文部科学省は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の解散命令を請求しましたが、本当に解散に値するのでしょうか。
 世界平和統一家庭連合(以後、家庭連合)は宗教法人で、信教の自由があり、その下に信者個人に信仰の自由があるという関係にあるのです。日本国憲法の下ではそれらは尊重されなければならないという大前提があります。個人からすれば、良心の自由があり、良心の自由の下にどんな信仰を持ってもよいということです。
 しかし、だからといって、社会に害を与える、たとえば地下鉄でサリンを撒くというような犯罪行為は許されません。だから心の自由と行動は分けて考える必要があります。どんな宗教ないし信仰の下にあろうと、人に危害を加えるような行動をとった場合は、それを国家権力は処罰します。
 家庭連合について言うと、家庭連合は刑事事件は起こしていません。安倍元首相が暗殺され、旧統一教会のことが問題になったときに、最初にボタンのかけ違いがありました。安倍元首相の暗殺は、本来はテロと見なされるべきで、それを追及するのが重要であるにもかかわらず、容疑者が言った旧統一教会への恨みが、マスコミなどでセンセーションに報道されると、そのマスコミからの追及に応えて、岸田首相は宗教法人の解散理由に民事事件も入ると言ったのです。
 民事も入るといった解釈が頭から駄目だとは言いませんが、宗教法人法第81条の「解散」には、行政府の判断だけで解散をすることを危険視し、裁判所の承認を得る必要があるとしたのです。ですから、今回家庭連合の解散に関して行われる裁判所の取扱は、非訴訟事件として扱い、公開の裁判として行うのではありません。それは、宗教法人が犯罪行為などを行って解散事由が明瞭であるとき、そのことを裁判所が確認するとしたものだからです。
 一つの宗教法人を解散させるのは途方もなく重要なことです。解散事由が事前には全く不明な民事まで含めて、それで公開の裁判にかけずに非訴訟事件として決定して解散させるというのは、憲法上許されない手続きだということになります。つまりは、宗教法人法の「解散」は、宗教法人が刑事事件のようなものを犯して、誰が見ても解散事由として納得がいく状況にある場合にのみ、それを前提として裁判所は解散を命じることができるというものなのです。
 ――文科省が家庭連合を解散させるという結論に至るまでのプロセスについては。
 最初に消費者庁に旧統一教会問題に関する検討会(霊感商法等の悪質商法への対策検討会)が設置されましたが、その中に長年旧統一教会を糾弾してきている弁護士の団体(全国霊感商法対策弁護士連絡会)の人を入れました。このこと自体が公正であるべき行政行為から外れています。彼らは旧統一教会を批判して「自分たちは旧統一教会の悪い所を全部見ているのだ」と言うかもしれませんが、その告発している当人をそのまま委員にするのはおかしいでしょう。殺人を目撃した目撃者だからといって、直ちにその目撃者を刑事や検事にするわけにはいかないでしょう。そういう意味では、家庭連合の解散請求にはすでに逸脱した手続きが取られています。
 このプロセスの根幹は一種のポピュリズムで、マスコミが起こした糾弾、非難に政治が安易に迎合したのです。国民の怒りや憎悪、不安が噴出した時、それをさらに煽り立て、その熱気のもとで、壊してはならないものを壊すのがポピュリズムという社会現象です。それは社会的に大変危険なのです。
 旧統一教会に対する批判が盛り上がりかけた時に、それに迎合するのではなく、問題の本質は安倍元首相がテロによって殺されたことであり、それと旧統一教会の問題とは別だとし、家庭連合に対する批判にはもう少し冷静に対応すべきでした。しかしその批判に迎合し、結果としてとんでもない方向へ進ませ、あわせて宗教法人法の前提も切り崩し、憲法からは説明のできない解散の手続きに入っていったのです。
 ――家庭連合はどういう宗教団体だと思いますか。
 私は仏教徒ですから、家庭連合に信仰を抱いているわけではありません。ただ、政教分離の社会的な正しい在り方を考えてきた者として、法的にあまりにも許されないことが行われているので、その正しい在り方に導くべく唱えているわけです。
 ともあれ、家庭連合はマスコミに批判され、極度に悪い印象が広がりました。家庭連合に対する批判的な宣伝を鵜呑みにするのではなく、家庭連合にも真摯な信者がいて、真面目な信仰二世もいるので、彼らにも信仰の自由があることを考えなければなりません。マスコミの情報を鵜吞みにせず、軽率なポピュリズムに陥らず、公正に判断すべきだったのに、それをしなかったのです。このような一宗教法人の解散に向けての異常な展開は、日本のマスコミではほとんど報道されませんが、世界から批判の声が上がっています。世界から見て、日本の旧統一教会の解散は海外でも問題視され、世界の有識者から批判されるようになっています。
 ――旧統一教会の信者の約4300人が拉致・監禁により脱会を強要されたことについてはどう思われますか。
 国連にそのことが訴えられて、国連から日本政府に問い合わせがあり、最高裁でも認められた事案であると認識しています。信者を監禁して信仰を妨害するのは明白な犯罪です。信仰は内心の自由にかかわるとても重要なことですから、それが暴力的に侵されている事態に、宗教家はもっと注目しなければなりません。

宗教界への影響は
 ――令和4年12月10日に成立し、昨年1月5日に施行された「法人等による寄付の不当な勧誘の防止等に関する法律」は宗教界にどのような影響を及ぼすのでしょうか。
 昨年10月13日文部科学省は東京地裁に家庭連合の解散請求をし、その際、被害規模として人数と総額を発表しましたが、それは自ら「被害者」だと名乗る人が申告したその「被害額」の合計です。本人らはそう主張しても、警察の取り調べで事件性がないと判断されるものはいくらでもあります。それからしても、法治国家としては考えられないやり方です。解散理由をつくるための被害者数や被害額数であり、客観的に調べた数字ではありません。そのような数字の損害額を行政が解散請求の理由にするのはおかしい。だから、そのような手続きの問題を国連に訴えたらどうでしょう。公開の裁判も受けられず、客観性のない調査結果で解散理由がつくられるなど、法治国家としては考えられないやり方で解散させられようとしている、と訴えたらどうでしょう。
 宗教家というのは何らかの意味において、世の中を指導する立場にあるのです。この件については宗教家の良心と見識が問われていると言えます。
 ――もし旧統一教会の解散命令請求が認められると、他の宗教団体にも影響が及ぶのではないでしょうか。
 たしかに前例にはなると思います。元々宗教法人法は欠陥の多い法律ですが、しかし理念としては、教団や信者の信仰の自由を最大限に保障するためにつくられた法律です。戦後の占領下に宗教関係者が集まり、談合してつくったような法律ですが、理念としては信教の自由を守るために作られた法律なのです。その一番の中心は信仰の自由、宗教活動の自由を保障するもので、それ故、行政が直接解散命令を出すのではなく、一旦裁判所に預けて、裁判所の査定、審理を経て解散命令を出すように定めたのです。
 だから、今の家庭連合の解散命令請求の手続きは宗教法人法を無視しているとも言えます。宗教法人法ができた目的から考えると、なぜ非訴訟事件という閉鎖的な手続きで解散を「確認」としてではなく「決定」として命じることができるのか疑問です。宗教法人法が定められた前提が全く無視されており、今の解散命令請求のプロセスは明らかに宗教法人法の本来の精神に反しています。
 ――法治国家として日本における信教の自由はどうあるべきですか。
 憲法は個人の信仰の自由を認め、祭祀も宗教と見る自由を与えています。社会的に見ると祭祀は公共性をもっており、それを個人の信仰の自由で壊すことはできません。祭祀は社会的、伝統的なもので、天皇の祭祀も国民が否定することはできません。神社のお祭りは長い伝統を有する地域の祭祀です。
 また、例えば、正月を考えてみます。正月は人間が恣意的に1年のうちのある1日を1月1日と定めたものなので、その日を正月として祝うと言っても、科学的には根拠は全くありません。しかし、1月1日になると人々が新たな気持ちになるというのも広義の祭祀です。社会は宗教的に動いているのです。お盆になると人々は先祖のことを思います。そのように社会は祭祀を大切にすることで保たれているのです。そうした祭祀を大切にしないと、個々の宗教は枯れ、人々の心がすさみ、潤いのない社会になっていきます。宗教家はそのことをくれぐれもよく認識しておかなければなりません。
 社会全体で見ると、宗教に関係する潤いは信仰を持たない人にとっても大切なのです。自覚的な信仰と直接関係ないように見えても、わざわざ1月1日を年の始まりだとして、さわやかな気分になるのも、それは祭祀と見るべきであり、そのような心の潤いや動きが周りにあることで、個々の宗派の宗教活動も活性化しているのです。
 自分が信仰していなくても宗教を大切にすることが社会には必要です。私は日本人が宗教性がないとは思いません。日本人は日本式の信仰心を持っているのです。世界には科学で説明しきれないものがあり、また科学的に説明できたとしても、科学的な説明では納得できないところに宗教は生まれるのです。さらに、人によって宗教は違うのが自然なのであり、それを前提に、他の宗教を信仰している人も大切にしてあげることが政教分離の正しい本来の在り方です。

 すぎはら・せいしろう 昭和16年(1941)広島県生まれ。昭和42年(1967)東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。城西大学教授、武蔵野女子大学教授を歴任。現在、国際歴史論戦研究所会長。新しい歴史教科書をつくる会前会長。全国教育問題協議会顧問。 著書はとしては、教育学に関するものとして『新教育基本法の意義と本質』、法学、政教分離に関するものとして『法学の基礎理論―その法治主義構造』『日本の神道・仏教と政教分離―そして宗教教育』『理想の政教分離規定と憲法改正』がある。その他共著として、戦後の歴史認識を改めるためのものとして『吉田茂という反省』『吉田茂という病』『続・吉田茂という病』がある。

(2024年5月10日付 811号)