岩倉具視/近代日本の礎を築く

連載・愛国者の肖像(15)
ジャーナリスト 石井康博

岩倉具視

 岩倉具視は文政8年(1825)10月26日、公卿・堀河康親の次男として京都で生まれる。天保9年(1838)に岩倉具慶の養子となり、儒学者伏原宣明により具視と名付けられた。同年叙爵し、元服して昇殿を許され、朝廷に勤務するようになった。嘉永6年(1853)に当時の関白鷹司政通の歌道の弟子として入門し、岩倉は関白から政治問題などを学び大きな影響を受けた。安政元年(1854)に孝明天皇の側近に侍る侍従に任じられる。
 同5年(1858)、老中の堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るために上洛すると、次の関白九条尚忠は幕府との協調路線を推進して条約を認めようとするが、多くの公家は反対した。3月12日に岩倉は大原重徳、中山忠能ら計88人の公家と共に参内して抗議をする。さらに九条邸にまで押しかけ、再考を約束するまで帰らなかった。孝明天皇は結局、多くの公家が反対していることを考慮に入れ、同月20日に堀田と小御所で対面し、条約締結の承認はできないと伝えた。これは岩倉にとって初めての政治運動であり、成功であった。
 結局、勅許を得ないまま幕府は6月に日米修好通商条約を結ぶ。同年8月には、無許可調印を問題にした孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅令を下賜した。戊午の密勅である。このことを知った幕府は、密勅は天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀だとし、大老井伊直弼は水戸藩を始めとする反対派を弾圧した。これが安政の大獄で、岩倉は大獄が皇室や公家にまで拡大し、朝廷と幕府の関係が悪化することを恐れ、京都所司代酒井忠義との関係を築いていった。
 安政の大獄は安政7年、井伊直弼が暗殺されて終わり、幕府内で公武合体派が盛り返す。そして、4月に老中が連署して孝明天皇の妹である和宮の将軍・徳川家茂への降嫁を希望する書簡が酒井忠義より関白に提出された。当初、天皇はその申し出を断ったが、岩倉は天皇に「和宮御降嫁に関する上申書」を提出する。その内容は公武合体のため、幕府の条約の引き戻しを条件に降嫁を許可し、朝廷の政治的な権限を高めていくというものだった。6月には孝明天皇が条約破棄を条件に降嫁を認める旨を伝えると、幕府は和親条約の線まで戻すことを約束した。岩倉の意見書によって歴史が動いた瞬間だった。
 翌文久元年10月、和宮は江戸へ下向、岩倉も勅使として随行する。江戸では老中と面会し、京都で流れていた「幕府が和宮を人質に、主上の廃位を企てている」という噂の真偽を問いただし、将軍家茂の直筆の誓書を書かせ、謝罪させた。これは当時の将軍の権威からすると考えられないことで、孝明天皇は大変喜んだという。
 しかし、尊王攘夷運動が活発になると公武合体のための和宮降嫁や京都所司代酒井忠義との関係の故に、岩倉は佐幕派と見られ、岩倉を排斥する圧力が朝廷にかけられた。そして同2年8月には岩倉に蟄居処分が下り辞官を命じられ、洛北の岩倉村で蟄居生活を送るようになる。元治元年(1864)に禁門の変が起こり、尊王攘夷の強行派が一掃されると、岩倉の元には薩摩藩と朝廷の同志たちが頻繁に訪れ、政治活動を再開するようになった。そして公武合体派だった岩倉は薩摩藩の動向に呼応し、次第に倒幕へとその姿勢を変えていった。
 慶応2年12月に孝明天皇が天然痘により崩御されると、同3年1月9日に明治天皇が14歳で即位した。新帝即位による大赦が行われ、禁門の変に関わった者などが赦免となったが、岩倉はすぐには赦免にならず、10月に大政奉還が行われた後、11月に晴れて赦免された。
 まだ年少であった天皇に対し、徳川慶喜は最大の所領と軍事力を持ったままで実質的に政治的な力を持っていた。そこで岩倉は、薩摩藩の大久保利通、土佐藩の後藤象二郎、朝廷の同志とともに辞官納地をさせる計画を進め、12月9日に参内し、「王政復古」を宣言した。そして総裁、議定、参与の三職を設置。新政府が樹立され、徳川慶喜に辞官と、領地の返納を迫っていく。
 慶喜は一度は応諾し、二条城から大阪城に退くが、江戸で薩摩藩士による騒乱が起こると、薩摩を討つべしとの声が広がり、幕府軍は京都へ向けて進軍を開始した。(鳥羽・伏見の戦い)朝廷では会議の場が持たれ、大久保の進言に岩倉が賛成し、錦の御旗とともに徳川征討が決定する。旧幕府軍は敗走。慶喜は江戸へ逃れた。
 同4年江戸が平定されると、明治天皇は10月に東京城(旧江戸城)へ入城し、東京への行幸には岩倉も同行した。明治2年(1969)6月には政府の再編が行われ、岩倉は右大臣三条実美を支える大納言に就任した。ここから岩倉は明治政府の首脳として力を発揮するようになる。同3年に岩倉は意見書「建国策」を出し、近代国家の在り方を論じた。そして同4年7月には廃藩置県が宣告され、三条は太政大臣となり、岩倉は右大臣兼外務卿となった。
 外務卿となった岩倉の懸案は徳川幕府が結んだ不平等条約の改正であった。そこで使節団を形成し、自ら特命全権大使となり、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らとともに総勢107人で条約の改正のために同11月から1年10か月間欧米12か国を訪問した(岩倉使節団)。各国の元首に会い、国書を渡すが、条約改正の交渉は不発に終わった。しかし、欧米諸国の近代化を目の当たりにした岩倉は衝撃を覚え、鉄道や工業、その他様々な分野を学んで帰ってきた。このことが日本の近代化を大きく進める結果となった。
 同6年9月に帰国すると、征韓論を主張する西郷に岩倉は真っ向から反対し、否決されたら辞表も辞さない態度をもって臨んだ。10月に太政大臣の三条が心臓病で倒れると、岩倉は太政大臣代理となり、明治天皇の裁断をもって征韓論を退けた。西郷は辞職し、鹿児島へ戻り、ここから西南戦争へと繋がっていく。
 国内では自由民権運動のうねりが広がりをみせていく中、政府内でも憲法の制定や国会の開設が議論されていった。岩倉は伊藤博文とともにかねてからベルギー憲法やプロイセン憲法を基にした憲法を考えていた。一方、大隈重信はイギリス憲法をもとにした憲法を目指していたが、明治14年の政変で伊藤の岩倉への進言により排除されてしまう。その後伊藤は岩倉の後押しを得て、ドイツ式の憲法の制定を進めていった。後に岩倉は死の直前に大隈に謝罪したという。
 また、岩倉は東京への首都移転により衰退した京都を復興させる目的から保勝会を発足させた。そして古寺社の保存に尽力し、没落した官家士族の救済に力を注いでいった。
 明治16年(1883)、京都御所保存計画のために京都に滞在している最中に咽頭癌が悪化、その知らせを聞いた明治天皇は勅命によりドイツ人医師ベルツを京都に派遣する。岩倉は治療の為東京に戻り、明治天皇は数度見舞いをするが、回復せず、7月20日にこの世を去った。享年57。
 岩倉は皇室の権威を高め、日本の近代化を促進し、大日本帝国憲法の制定にも貢献したが、一方、京都の文化の保全、振興など、伝統を守る姿勢を崩さなかった。今の日本を語るとき、岩倉具視の生涯を忘れることはできない。
(2023年12月10日付 806号)