日蓮主義の田中智学

連載・近代仏教の人と歩み(7)
多田則明

「立正安国論」で近代日本を

田中智学

法華経で国づくり
 大乗仏教には華厳経の唯識論や般若経の空論などの系統があり、それらを集大成したのが「諸経の大王」と呼ばれる法華経である。法華経は大乗仏教の初期に成立した経典で、誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれている。さらに、釈迦は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の過去世において既に成仏していた「久遠実成(くおんじつじょう)の本仏」であると主張する。永遠の本仏が紀元前5世紀に人間として現れたのが釈迦であるとする説は、イエスを受肉(インカネーション)した神とするキリスト教と似ている。
 来世で成仏するという浄土系の経典とは違い、今ここでの成仏を説き、娑婆世界を仏国土にしようというのが法華経の特徴で、それまで罪深く仏になれないとされてきた女性も成仏できるとした。こうした発想が結実したのが比叡山の天台本覚論である。法華経の解釈を大成したのが中国天台宗の開祖である天台大師智、それを日本に持ち込んだのが伝教大師最澄で、天台宗の根本教理となる。
 6世紀に伝来した仏教に注目し、とりわけ法華経を中心とする仏教を国づくりの思想的な基盤にしようとしたのが聖徳太子である。太子の目を引いたのは法華経の平等思想で、それが日本人の心性に合うと考えたのだろう。太子は法華経、勝鬘経、維摩経の三経の注釈書『三経義疏』を著し、推古天皇に講義している。太子の仏教立国の理想は奈良時代、聖武天皇によって概成する。
 平安時代に最澄が開いた比叡山で天台宗を学んだ日蓮は、鎌倉時代の承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に敗れ、上皇の命を受けた真言僧の加持祈祷が役立たなかったことから、現世利益を追求する密教を否定し、宗教的理想を社会的に実現すべく「立正安国論」を著し、北条時頼に奉呈した。
 日蓮宗(法華宗)は室町時代に京都の武家や商工業者の間に広まった。町衆は現実世界で成果を上げてきた人たちで、来世での救いを約束する浄土宗より、自らの生業に意味を与えてくれる日蓮宗を信じるようになったのだろう。
 彼らは天文初年(1532)頃から法華一揆を結成し、細川清元と組んで一向一揆とも戦い、比叡山をしのぐ宗勢となったが、同5年に両者の間に宗論が起り、山門僧を日蓮宗徒が論破したことから争いとなる。比叡山は旧仏教勢力や六角氏とも組んで洛中洛外の法華宗21か寺を焼き、宗徒を京から追放した。これが日本初の宗教戦争とされる「天文法華の乱」(日蓮宗では法難)で、以後同11年に勅許が下るまで、日蓮宗は洛中において禁教状態となった。さらに、天正7年(1579)「安土宗論」で浄土宗に敗れたとされる日蓮宗は織田信長に処罰され、以後、他宗への法論を行わないことを誓わされた。
 文禄4年(1595)、秀吉が方広寺大仏殿千僧供養会のため諸宗派に出仕を命じたのに対して、日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受布施派と、日蓮の教えに従い法華経を信仰しない者から布施も法施もしないという不受不施派に分裂し、後者は弾圧され、それは徳川幕府にも引き継がれた。
 権力との摩擦を恐れず、宗教的信念を語る「折伏」は日蓮以来の伝統であるが、徹底的な弾圧を受ける中で法華宗は次第に主張を和らげ、幕末には「立正安国論」も重視されなくなっていた。

八紘一宇
 明治になり、日本を近代国民国家に導く思想が模索されるなか、日蓮宗徒らに「祖師に還れ」と唱えたのが田中智学である。明治憲法で宗教の自由が公認された以上、「折伏」の伝統に帰れと主張し、「立正安国」思想を踏まえて社会実践を展開した。
 智学の父は江戸末期に盛んになった法華講のリーダーで、在家であることを誇りにし、智学に「仏法は学ぶべし、僧侶とはなるべからず。味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」と言っていた。幼くして両親を亡くした智学は、両親の菩提を弔うため8歳で得度する。
 日蓮の御遺文を独学する中で幕末の教学に疑問をもった智学は、祖師に還ることを決意し、18歳で還俗して明治13年に蓮華会を設立。次いで、明治17年に立正安国会、大正3年に国柱会を設立する。いずれも在家の仏教教団で、智学は俗世にあって日蓮の教えを踏まえた社会変革を目指した。近代日本の形成という時代的な要請に応えるべく、伝統的な日蓮仏教を再解釈し、近代仏教思想として体系化したのが日蓮主義である。
 智学は明治13年に横浜で公開演説会を開き、活発な講演活動を始めた。その活躍は「烏の啼かぬ日はあっても、田中智学が日蓮と日本を言わぬ日はなし」と評されたほどで、「日蓮主義」と「日本国体」の高揚を唱え、まさに一世を風靡した。
 智学から大きな影響を受けた知識人に高山樗牛、宮沢賢治、石原莞爾らがいる。日本主義からニーチェ主義へと思想的に遍歴した樗牛は、ナショナリズムと超人思想を併せ持つ人物として日蓮を見ていたのだろう。仏教の近代化を図った意味において、智学は浄土真宗の清沢満之と相並ぶ存在だった。
 智学は日露戦争後、国民に国体観念の普及を図る運動を繰り広げるようになる。国体という語は平安期の真言密教にもあるが、天皇を中心にした政治的な秩序という意味で用いたのは水戸学の会沢正志斎である。明治になって天皇中心の国づくりが始まると、国体という語は盛んに使われるようになり、教育勅語などで強調された。
 「八紘一宇」も造語で、法華経による世界統一という壮大なビジョンだが、軍国主義のスローガンのように使われ、戦後、智学が否定される一因となった。大谷栄一の研究によれば、「八紘一宇」を言い出したのは智学の盟友の清水梁山(日蓮宗の僧で天皇本仏論を説いた)だが、広めたのは智学だ。「立正安国」の実現は一国では不可能で、世界の統一を目指すのは必然でもあった。
 石原莞爾が唱えた「世界最終戦争論」は、大量破壊兵器と長距離運搬手段が開発されると最後の世界大戦が起こり、戦争は絶滅するというもの。日蓮が『撰時抄』に記した「前代未聞の大闘諍」という予言からの発想だが、核兵器や大陸間弾道弾が開発されても戦争はなくならなかったことからして予言は外れた。
 二・二六事件の思想的背景となったとされた北一輝や、テロを行った血盟団の井上日召らが出たことから、日蓮主義は危険視されるようになる。二人に共通しているのは神秘体験で、北一輝は上海で「霊告」を受け、井上日召はどこからともなく「おまえは死ねる」という言葉を聞き、やがて超国家主義を唱えるようになる。宗教にはそうした側面もあるが、智学の日蓮主義は理性的な論理で彼らとは関係ない。
 明治からの近代日本の形成を支えた仏教思想として、田中智学の日蓮主義と清沢満之の親鸞主義は双璧を成している。敗戦の精神的ダメージを乗り越え、戦時教学として断罪するだけではなく、両者への本格的な研究が進んでいるのが日本の学界の近年の傾向で、日本という国のかたちを知る上でも重要である。
(2023年12月10日付 806号)