龍神信仰の岩屋山志明院

連載・神仏習合の日本宗教史(20)
宗教研究家 杉山正樹

志明院山門

 岩屋山金光峯寺(きんこうほうじ)・志明院(しみょういん)は、鴨川の源流域・雲ケ畑に位置する京都奥北部の古刹で、開基は役行者と伝わる。鴨川は、桟敷ケ岳をその源流とし雲ヶ畑を経て鞍馬川と合流、上賀茂付近で京都盆地に流れ出る。この鴨川が、旱魃と氾濫を繰り返す暴れ川であった。強大な権力を奮った白河法皇は、鴨川の氾濫を「三不如意」の一つに数えた。鴨川の流域それ自体が、河川の氾濫によって形成された扇状地である。鴨川の治水は、時の為政者の重要な政策課題でもあった。
 天長6年(829)、「水源地を祈願し祀らなければ、暴れ川である鴨川は治まらず、都の安穏はない」。淳和天皇に進言する空海に勅命がくだり、志明院が再興される。実はこれには前段があった。
 志明院の再興から遡ること5年の天長元年、畿内で大旱魃が発生した。東寺の空海とこれに並ぶ西寺の僧守敏(しゅびん)が、淳和天皇の勅命を受け「神泉苑」で祈雨の修法「請雨経法」を競う。最初に守敏が修法するが、わずかばかりの雨しか降らない。続いて空海が修法するもやはり雨は降らない。祈りが通じないのを不審に思った空海が調べたところ、空海を妬んだ守敏が、雨神である全ての龍神を祈祷で封じ込めていたことが判明する。
 空海は龍神の中で唯一、守敏の呪力から逃れていた「善女竜王」を見出し、勧請して祈祷を再開。竜王が空海の祈りに感応すると、黒雲沸き立ち三日三晩の大雨が降り注いだ。このことの故に天皇は、空海の法力にますます信頼を寄せた。守敏の企てのためか西寺はその後、衰退したという。『今昔物語集』と『太平記』にこの説話が記される。

史跡「神泉苑」

 志明院は、歌舞伎の「雷神不動北山桜・鳴神(なるかみ)」の舞台としても知られている。時は、第57代陽成天皇の御代。世継ぎのない天皇は、高僧・鳴神上人に皇子誕生の祈願を依頼した。「皇子が誕生すれば、上人のために北山に戒壇を作りたい」。皇子は誕生したが、天皇はその約束を一向に果たさない。叡山の法師に気兼ねして決断を下せないでいた。約束を反故にされたのを恨んだ上人は、行法によって北山の瀧壺に八大龍王を封じ込め、天下に雨を一滴も降らさない。国土は乾き旱魃に民百姓が苦しむ。
 一計を案じた天皇は、内裏一の美女・雲絶間姫(くものたえまひめ)を北山の岩屋に送り込む。上人は、姫に警戒しつつもその恋物語と美しさに惑わされ行法を破ってしまう。上人が酒に酔い熟睡する間に、滝の上にかかる結界の注連縄を姫が断ち切ると、八大龍王が解き放たれる。黒雲がたちまち押し寄せ念願の降雨となった。雨の音に飛び起きた上人は、姫に騙されたと知り烈火のごとく怒り、髪を逆立て姫を逃さじと後を追いかけ花道に消える。
 志明院の本尊は空海の直作、日本最古の不動明王である。奥の院たる根本中院の眼力不動明王は、宇多天皇の勅願による菅原道真公の作。それ以後、当寺は皇室の勅願所となる。山全体が修験の山岳霊場のため、侵し難い霊気が立ち込める。諸堂が点在する山門を登ると、随所に露出する奇岩や怪岩が目に飛び込む。
 本堂を左に抜け沢に架かる橋を渡ると、二つの岩屋を正面に見据える。向かって左が「鳴神岩屋」で、上人が八大龍王を封じ込めた「北山の瀧壷」の舞台となった護摩洞窟である。再び本堂に戻り、奥に連なる石段を上がると、右手上方に巨大な岩場を覆う鉄筋造りの神舞台が現れる。この岩場が、志明院の最神域「神降窟」である。高さ約30メートルの大岩窟の天井からは、湧水が絶えずしたたり落ち、鴨川の最初の一滴がここから始まる。
 写真撮影は山門前までのため、その先へは持ち物を社務所に預けて参内する。新聞記者時代、志明院に泊まった司馬遼太郎は、障子が揺れ屋根が鳴りだすという不思議な体験を随筆に遺している(『司馬遼太郎が考えたこと1』)。司馬遼太郎との対談でそれを聞いた宮崎駿監督が、「もののけ姫」の着想を得たという。

上賀茂神社の「ならの小川」

 桓武天皇による平安遷都の際、鴨川は四神相応「東の青龍」として重要な地相に位置付けられた。爾来、鴨川の水は神聖なものとされ神事に重用される。上賀茂神社内には、鴨川の支流「ならの小川」が流れる。境内を出ると「神明川」と名を変え、社家町の家々に水路として取り込まれる。かつては神官の禊ぎにも供されていた。水量豊富で清涼な鴨川、時に増水し激しい濁流となって京を下る。
 1980年代、鴨川上流に大規模なダム建設の話が持ち上がったが、志明院住職の尽力により計画は中止された。志明院は、龍神信仰の原型をとどめる聖地として、鴨川の源流・奥秘境の岩屋山にたたずんでいる。
(2023年12月10日付 806号)