江戸幕府の寺請制度が始まる
連載・宗教から家康を読む(8)
多田則明
私が暮らす香川県さぬき市には四国八十八箇所の86番から88番の霊場(寺)がある。四国遍路が修行僧から庶民の間に広がったのは江戸時代中期で、お遍路さんたちはそれぞれの檀那寺が発行する「捨往来手形」を携えていた。それには、出身地に加えて「万一、途中で病死すれば、その土地の作法によって埋葬してください、連絡は不要」と書かれていた。結願の大窪寺に向かう途中の河原では毎春、行き倒れになったお遍路さんを供養する流水灌頂法要が、真言宗のお坊さんたちによって営まれている。
寛永11年(1634)江戸幕府は「寺請制度」を定め、誰もが一つの菩提寺の檀家になるよう定めた。目的はキリシタン禁制で、人々は寺請証文を受けることが義務化された。寺では檀家の出生や死亡を記録するようになったので、今の市民課のような役割を担当したのである。
寛永12年には寺社奉行が設けられて僧侶や神官を管理するようになり、仏教各宗派には本山末寺の制を定め、本山に各宗派の寺を管理させた。寛永14年に起きた島原の乱を機に、幕府は隠れキリシタンを取り締まるため現在の戸籍に当たる「宗旨人別帳」を作った。邪宗門とされたキリスト教や法華宗(日蓮宗)不受不施派の発見、排除のためである。
これらにより、各家庭には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招く慣習が定まる。寺にとっては一定の信徒と収入が保証されるようになり、いわゆる葬式仏教の始まりで、住職が世襲化され経営的には安定するが、修行を要する僧侶が職業化したため、本来の宗教活動がおろそかになった。また、幕府の出先機関として民衆を管理する僧侶は、公家や神官、儒者と共に武士に準じる身分とされ、わいろなど汚職の温床ともなり、これが明治初めの神仏分離に伴う廃仏毀釈の一因となったのである。
それでも檀家制度が今も残っているのは、先祖崇拝の日本人の心性に合っているからであろう。寺請制度も、戦国時代の経済発展で多くの寺が建てられていたから実現できたのである。キリスト教が日本人に浸透しなかった理由の一つにも、信仰した個人は救われても、そうでない先祖は救われないとされたからだ。
仏教宗派の中で浄土宗系が信徒数を増やしたのは、鎌倉時代初めの末法の時代に、行き倒れの人たちを念仏僧たちが供養して回ったのが一因とされる。本来、葬式に力を入れていなかった曹洞宗が寺の数では最大になったのも、中興の祖とされる瑩山(けいざん)禅師が密教的要素を取り入れ、修行中に死亡した僧のための葬儀を一般化したのがきっかけだった。古くから日本人には先祖を祀る風習があり、それが仏教、とりわけ浄土宗によって理論づけされたと言える。
もう一つ、日本人の特徴は現世利益である。不幸続きの現世に失望し、来世での救いに希望を託すのが浄土信仰と思われがちだが、それでは、分からない死後のことなど考えず、今を大切に生きよと言った釈迦の教えから遠いことになる。浄土信仰の核心は、死後のことは阿弥陀如来に任せ、生ある限りは世のために働くことにあるのではないか。例えば、浄土真宗が盛んな近江で生まれた近江商人の「三方よし」は、そんな商道徳である。
浄土真宗の二種回向(にしゅえこう)の教えは、死後浄土に往って阿弥陀如来に救われ、その立場で現世に戻り人々を救いに導くというもので、力点は後者にある。自分のままだと限界があるが、阿弥陀さんの心になれば無限に奉仕できるという信仰だろう。
(2023年12月10日付 806号)