『殉情詩集』『田園の憂鬱』『晶子曼陀羅』佐藤春夫(1892~1964)

連載・文学でたどる日本の近現代(44)
在米文芸評論家 伊藤武司

佐藤春夫

細君譲渡事件
 昨秋、佐藤春夫の遺族が新宮市立佐藤春夫記念館に寄贈した春夫が父に宛てた書簡の中から、佐藤が谷崎の別れた妻・千代と結婚した1930年の「細君譲渡事件」前後のものが発見された。心配する父に「一切御懸念御無用」と安心させ、また同年9月に脳出血で倒れた佐藤を家族で支え合っていた様子のうかがえる書簡もあったことが、今年の9月に同館より発表され話題になった。同館では、今回発見された資料を展示・公開する企画展「佐藤春夫、家族への手紙」を11月29日から来年2月25日まで開催している。
 佐藤は先輩の谷崎の推挙で文壇に登場したが、谷崎家に出入りする中で千代に恋心を抱くようになり、一時は谷崎が佐藤と千代の交際を認めたものの、やがて撤回して二人は絶交。その後、和解して、谷崎は千代と、佐藤も妻と離婚し、佐藤と千代の結婚が成立したのが上記の事件で、世間の注目を集めた。
 瀬戸内寂聴の『つれなかりせばなかなかに』は、それを小説化したもので、同書によると千代に冷淡な谷崎は千代の妹セイ子との結婚を考えていた。ところが、セイ子に拒絶された谷崎は、改めて千代を佐藤に譲渡する気になり、佐藤も承諾。複雑な事情を乗り越え千代と結婚したのは、佐藤がそれだけ千代に惚れていたからだという。

秋刀魚の歌
 佐藤春夫は明治25年、和歌山県新宮に代々医業を生業としている家の長男として生まれた。16歳の時、地元の新聞に和歌や詩や歌論を投稿し、石川啄木の選で短歌一首が「明星」に掲載。中学校卒業後、上京して生田長江に師事し、与謝野鉄幹の東京新詩社に入る。永井荷風に惹かれ詩人の堀口大学と共に慶応大学予科に進む。
 「スバル」「三田文学」に詩や短歌、評論を投稿し、詩と和歌の抒情詩人として作家人生を出発する。その後、小説から評論、随筆、推理小説、文人の伝記、童話、翻訳など多方面に広がりを見せるようになる。
 初期の作品『西班牙犬の家』は、愛犬を連れて雑木林の中の一軒家のスペイン犬と遭遇する日をスケッチした短篇。大正10年に『殉情詩集』を、さらに小説『田園の憂鬱』と『都会の憂鬱』を発表し作家として確立した。
 『殉情詩集』は文語調の古典的形式に、初恋の体験、思慕、心寂しい感傷、底の知れない絶望感を抒情的に表現した哀歌である。明治末から大正9年頃まで、口語自由詩の台頭に対して、北原白秋、室生犀星、西条八十らが抒情詩集を相次いで発表していた時期に『殉情詩集』が誕生した。日本人の感性や情感に響く詩篇や漢詩が並び、唯美主義・浪漫主義の主音が全編を滔々と流れている。
 続いて『佐藤春夫詩集』を発刊。主に明朝の漢詩を採録した訳詩集『車塵集』や昭和21年には詩集『佐久の草笛』を発刊。52歳で『与謝野晶子歌集』を編纂し、長篇小説『晶子曼陀羅』を上梓した。昭和25年の評論『近代日本文学の展望』は、浪漫主義を基礎にした学問的論考で、随筆集『退屈読本』や、詩と批評を合体させた評論集『風流論』、新聞連載の長篇自伝『詩文半世紀』などを執筆。
 親交を結んだ芥川龍之介の自殺に、佐藤は「生涯を短かい一遍のロマンスにしてしまった」と哀悼文を捧げている。生死を分けたのは、「僕のしゃべるが如く書く説と書くが如くしゃべる説」という生き方の相違から来たと、随筆『芥川龍之介を哭す』に述懐している。「心ゆくままに話すことを喜ぶが如く文字を操ることこれが文章入門の心得だ」は、佐藤の文学上の特徴的方法論となった。
 詩集『我が一九二二年』に収められた「秋刀魚の歌」は大正10年、雑誌に発表。「さんま、さんま、さんま苦いか塩つぱいか」は多くの人にそらんじられ話題となる。第一節は、「あはれ 秋風よ 情あらば傳へてよ ──男ありて 今日の夕餉に ひとり さんまを食ひて 思ひんふける と。」
 覚えやすい一定のリズム感のある5連からなる詩で、これには佐藤と谷崎夫妻にからむ上記のドラマが秘められている。
 第5連は、「さんま、さんま、 さんま苦いか塩つぱいか。 そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。 あはれ げにそは問はまほしくをかし。」 かなわぬ恋とは知りながら、さんまを食卓にのせた独り身のほろ苦い夕餉のわびしい光景を詠っている。
 それから9年をへた38歳、彼の望みはついにかなえられる。谷崎が妻・千代と離縁し、佐藤の妻にさしだすという連名の「挨拶状」が新聞紙上に報道され社会をにぎわせた。なんとか結婚にこぎつけ夫妻に授かった長男が、行動分析学の草分け的な学者になった慶應大学名誉教授の佐藤方哉で、谷崎が名付け親。世間を騒がせた文人二人の顛末は後年、雑誌に載せた「僕らの結婚」で詳細に釈明されている。
 佐藤のよさは詩の精神と散文の資質を兼ねていることにある。一方、自分が納得できる創作活動を優先し、読者に喜んでもらうといった不純さを受けいれない頑なさがあった。自身の芸術観を押し立て、晩年には『小説永井荷風伝』をきっかけに中村光夫と長い論争をしている。
 文芸活動の後半には日本や東洋の古典に傾斜しながら、現代の心理で法然上人像に迫った歴史小説の秀作『掬水譚』、現代訳『方丈記』、『釈迦堂物語』などを著した。

田園と都会の憂鬱
 佐藤の青春は実に混沌としていた。大学を中退し、二科展に油絵を出品すると3年連続で6点が入選し、画家としての素質は確かにあった。しかし作家に専念すべきだと谷崎に忠告され、断念。焦燥感のなか、親に内緒で若い女性と同棲し、当時の文人のお決まりのコースをたどる。心配した母親が二人をとりなし結婚させている。
 大正8年刊行の『田園の憂鬱』は売れない作家の鬱積の気持ちや不確かな心の振幅を織りこんだ私小説的創作。同年齢で友人の芥川が漱石に絶賛された『鼻』を発表し華々しく登場する最中、「文学上の自信をなくし方向を見失い」遅れをとった佐藤の姿は対照的だ。
 医院を開業していた父親から資金援助があったが、それも25歳で打ち切られた。肝心の創作の糸口もつかめず、物憂い感情が絶えず彼をつきあげていた。後に当時の心境を「疲れ切つた気分を油絵のやうに克明に描いて見たかつた」と語り、「一章一章の各を、各一枚の絵と見て」ほしいと書いている。
 昭和23年刊行の『青春期の自画像』では、「わが55年の生涯を通じて、自分が人生で少しく学んだところは恋愛学校だけであった」と証言している。彼の人生は、失恋、演劇女優との同棲・結婚、恋愛沙汰、また離婚という多情な遍歴であったからだ。自らを「放蕩息子」にたとえた著者は、地元の人々と「口不調法」な交流をしながら、別れた女の面影と今の女に対する思いとが交錯する場面が『田園の憂鬱』に描写されている。
 晩春の山里の「その家が、今、彼の目の前へ現われて来た」という冒頭のニュアンスは、都会から遁走してきた作者の背水の陣的な気構えを示しているとはいえまいか。「都会のただ中では息が屏(つま)つた。人間の重さで圧しつぶされるのを感じた。其処に置かれるには彼はあまりに鋭敏な機械だ、…」と独白している。副題の「あるいは病める薔薇」も、重圧に押さえつけられた鬱の状態から抜け出たい思いを開陳したものと解せよう。
 『田園の憂鬱』について評論家・小田切進は、佐藤の小説の中で最もすぐれているとし、花袋、谷崎、広津和郎たちからも優れた作と評価された。
 辺鄙な片田舎に家を借り、18の妻と二頭の愛犬ラテとレオ、猫の青と、夜は円い笠のランプの光をたよりにした半年。主人公の夫は「老人のような理智と青年らしい感情と、それに子供ほどの意志とをもった青年」で、息苦しい都会の生活で消耗しきった自我、その己を大自然の中にすえて、本来の自分を取り戻そうとの苦闘の軌跡がテーマである。
 青年から壮年にかけての佐藤は厳めしい痩躯の頑丈な体つきで、性格は直情型の愛憎が強い人間といわれるが、含羞と羞恥心を知る人でもあった。当作や自伝では「はにかみやで訥弁」、「見かけによらず人見知りするたち」と告白し、講演も嫌いであった。
 心の読めない妻との生活に、主人公は窒息感と倦怠をぬけだし希望の活路を見いだそうとする。家の周囲に広がる牧歌的な田園風景、打ち捨てられた感のある「幾株かの薔薇」、桐畑、榊の生垣、松、枝垂れ桜、モクレン、沈丁花、玉椿、山茶花、萩、ツユクサや赤まんまの叢、蜘蛛の巣、蟻の進軍や馬おい虫、生まれたばかりのセミの成虫など躍動感ある生命の世界、動植物の精妙な素描と田園の叙景は、詩情美にあふれ魅惑的である。その甘美な世界にむかって彼はつぶやく。「見よ、生まれる者の悩みを。この小さなものが生まれるためにでも、ここにこれだけの忍耐がある!」、「この小さな虫は俺だ!蝉よ、どうぞ早く飛び立て!」と。
 いつしかコオロギが鳴きイナゴが飛び跳ねる秋が訪れる。自然の中に身をおき、自然のエネルギーを摂取し試行錯誤を重ねながら、人生の道筋を求めて呻吟する主人公の心の陰影は印象的である。「薔薇は、彼の深くも愛したものの一つであった」。末尾で「おお、薔薇、汝病めり!」と「天啓」のような声の響きが「何処まででも何処まででも」彼を追いかける。しかし、「彼の心は、決して打ち砕かれているのではなかった」。「彼はこの花の木で自分を卜うてみたい」と手入れをしてきたのだ。ゲーテの遺した「薔薇ならば花開かん!」の詩句に応え、「生き甲斐」という深い昂ぶりを裡に秘めて…。
 主人公は「荒廃」した土地の暮らしにもめげず、「忍耐」を手中に実社会へ立ち戻る。幾度も推敲を重ね『田園の憂鬱』は完成した。文学の道に生きる助言をした谷崎に、「谷崎は僕の文学的生涯の再生の恩人である」と感謝を惜しまなかった。
 以降『殉情詩集』や評論などを書きすすめながら、『田園の憂鬱』の姉妹小説『都会の憂鬱』を雑誌に連載、翌年刊行。実在の人物をモデルに、妻や愛犬が登場する売れない無名の作家が主人公の写実的小説である。人間関係の軋轢、生活苦、陽の当たらない都会の借家住まいに妻からは小言が、孤独と貧乏とに囲まれた「日かげ者」の無気力さで小説は終わる。
 自然主義の白鳥は、芸術的味とユーモラスもあって『田園の憂鬱』以上に面白いと論じた。奥野健男も同様で、「書けない試作品をもてあそんでいる生活落伍者、そのニヒルな遊民の姿…女房に捨てられる男のかなしさ」など、一個の社会人としての憂鬱と「作者のぎりぎりの精神状況」が「見事に表現されている」という。佐藤自身は「自分の作品のなかでは、最も自然主義的な作風で、また最も自叙伝的、自画像的要素」の小説という。平野謙は「『田園の憂鬱』とはよほど作柄の異なつた、いわば生地まるだしの人間くさい『都会の憂鬱』が、そこに現前した」と分析する。

先駆的な世紀末作家
 小説『晶子曼陀羅』は昭和29年に新聞連載後に刊行。演舞場で上演され、翌年、讀賣文学賞を受賞した。
 青年時代の佐藤は一時、与謝野晶子に師事していた。佐藤の文学的方法論そのままに、話すように書き下す同作は、長文にもかかわらず読みやすく、詩心と批評精神のマッチしたなめらかな名文である。
 自序の冒頭で「これは勿論、晶子伝ではない。また晶子論でもない。…むしろ像のほうなのである」と切り出す。与謝野晶子が世に登場するまでの、早熟の天才少女時代から青春期までの半生を描いている。厳選した晶子の歌を全22章の中に挿入、それらが放つイメージに虚構をくみいれ、個性的な晶子像を造型するスタイルである。三人称の本文中に鉄幹をつうじて出会った晶子の歌人のライバル、彩色兼備の山川登美子にも光をあて、創刊したロマン主義「明星」誌を主宰する鉄幹や弟子たちの「新詩歌の集団」の交歓や晶子との結婚生活がつづられている。
 佐藤春夫はベストセラー作も少なく、地味な印象があった。戦後の文壇ではそれなりに厚遇されたが、大正期に活躍した旧い時代の作家と評されることもあった。しかし中村真一郎は、「変貌という、20世紀文学の特長から見れば、佐藤氏はわが近代における最大の作家」であり、漱石、藤村、秋声らの文豪と比べても遜色がないと指摘。なぜならば生涯を通じたゆみなく詠った古典的詩歌のかたわら、「前代から知られていなかった新しい技法」をいち早く小説などの創作で試みる先駆的「世紀末作家」だからという。近代文学史に記した業績と芸術活動の主軸は、人生のリズムを確然と守りぬき、どこまでも詩人であろうとの純真な情熱を底流させた詩魂であったといえる。
 有望な新人作家の発掘にも積極的で、多数の門下生から井伏鱒二、太宰治、吉行淳之介、稲垣足穂、遠藤周作、柴田錬三郎、安岡章太郎ら一流の作家を育てたことでも知られる。
 43歳で創設された芥川賞選考委員に就任、27年間務める。昭和23年、芸術院会員。昭和35年、文化勲章受章。昭和39年に72で永眠した。新宮市の熊野速玉大社境内に佐藤春夫記念館がある。
(2023年12月10日付 806号)