『風土記』『日本書紀』で葵祭の謎を解く

連載・京都宗教散歩(22)
ジャーナリスト 竹谷文男

天孫降臨神話の高千穂神社=宮崎県西臼杵郡

 天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と共に高千穂峰に天降ったとされる賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと、通称・八咫烏)は、日向から東征した神武の先兵として進んだ。その後、葛城山のふもとに住み、さらに木津川のほとり、そして山背(やましろ)の鴨川の上流に住み着いた。その娘玉依日女(たまよりひめ)が、川から拾い上げた丹塗り矢で懐妊した故事に因んだ神事が、本紙9月号7面の「矢取り神事」だ。生まれた加茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)は長じて祖父の賀茂建角身命から、「父にこの盃を献げよ」と言われるや否や、盃を天に向け、天井を突き破って天に帰って行ったという(『山背国風土記』)。
 この加茂別雷命を祀るのが賀茂別雷神社(上賀茂神社)、その母と祖父を祀るのが賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)である。京都三大祭りの中で最も雅な葵祭は、御所から両賀茂社へと往復する。
 葵祭は、雅な行列が町を進む路頭の儀と、両賀茂社で執り行われる社頭の儀とからなっているが、一般の祭りのように神輿のような神の依代となるものは一切無い。行列が携えるのは、天皇が両賀茂社の神様に届ける御祭文であり、賀茂の神様からその御託宣を頂くのが社頭の儀である。御託宣は「返し祝詞」といわれ、内容は一切外に漏れないよう神職と勅使との間で小声でやり取りされる。この御祭文を届ける行列に斎王(代)が腰輿(およよ)に乗って加わるのが路頭の儀なので、決定的に重要なのは社頭の儀と天皇に届けられる返し祝詞である。
 葵祭の発祥は「欽明天皇の時に、風雨甚だしく、賀茂の神様の怒りとして、鎮めるために始まった」という(『山背国風土記』逸文秦氏本系帳)。「風雨甚だし」とは文字通りの風雨なのか、政治的な波風なのか、あるいは仏教伝来時の受容についての議論なのだろうか。欽明天皇は聖徳太子の祖父で、飛鳥時代、現在の奈良県桜井市の磯城嶋(しきしま)の宮に住んでいたが、なぜ遠い山背国の両賀茂社にまでお伺いを立てなければいけなかったのだろうか。しかも天皇は、御祭文の返答が到着するまで宮中で待ち続けるという、相当に緊迫した場面が想像できる。
 このあたりの事情が分かるのは『日本書紀』巻第19の欽明天皇一代記だろう。欽明天皇の在位中の出来事として書かれている大まかな記載分量を調べると、①仏教の受容を巡る問題が4%②百済が新羅に圧迫されていた朝鮮半島問題が85%③それ以外の結婚などが11%、実際の風水害についての記載は皆無である。欽明朝における朝廷の最大の懸案事項は、半島問題で、とりわけ日本が応援していた百済の聖明王が欽明天皇に上奏した文や発言、聖明王の事跡が多く書かれている。
 聖明王は、一時は高句麗、新羅に奪われた領土を取り戻した百済中興の英雄だったが、子息の余昌が新羅領内に進軍したことを不憫に思って自ら新羅領に軍を進めた。それを知った新羅はただちに全軍を集めて聖明王の軍を撃破し、王を捕虜にして、わざと身分の低い者に首を切らせた。聖明王は嘆息して佩刀を差し出し、涙を流しながら首を与えたという(『日本書紀』欽明天皇15年12月)。
 翌16年2月、聖明王の死を伝えに来た百済王子恵に対して蘇我臣は「昔、雄略天皇の時に百済が高麗に圧迫されて危機に瀕したとき、雄略天皇は『建国の神を請い招き、行って助ければ、必ず国は沈静し民は安定する』との託宣を得て、こうして神を招き行って救援させられた」と述べた(『日本書紀』欽明天皇16年)。蘇我臣はこの時、雄略帝の故事を引用したが、同様に百済が新羅に圧迫されていた欽明朝において、欽明天皇もまた『建国の神』に託宣を得ようとしたことは十分考えられる。建国の神とは神武の先兵として歩んだ賀茂建角身命、すなわち賀茂の大神のことのはずだ。

葵祭が始まる前に行われる賀茂の競べ馬=京都市北区の上賀茂神社


 これが葵祭のもともとの起こりだったのではないだろうか。欽明朝において、緊迫する朝鮮半島問題を解決するために『建国の神』賀茂大神に御祭文を捧げ、それに対する御託宣を頂く神事に由来したものではないか。
 葵祭が始まる前に上賀茂神社で「賀茂の競べ馬」と呼ぶ駆け馬神事が行われ、全国からの良馬が集まった。そして当日、社頭の儀が終わると賀茂の神様が答えた「返し祝詞」を携えて、良い馬と騎手が欽明天皇の磯城嶋の宮まで昼夜を問わず走って届けたのではないか。その名残のように今でも、社頭の儀が終わると駆け馬の神事が行われている。
 『山背国風土記』逸文によると、馬は鈴が繋がれ騎手は猪の頭をかぶって走ったという。馬が鈴を付け騎手が猪の頭を被ることは、だてや酔狂ではないはずだ。後年、「駅鈴」の制度が出来たが、鈴をつけるのは官馬である印だ。猪の頭をかぶるのは事故に備えた防具だった。猪の頭をかぶって騎手が、ムチを振るって馬鈴を鳴らしながら、賀茂の神様から返された御託宣を携え、一目散に欽明天皇が待つ磯城嶋の宮まで走り続けたのだろう。
(2023年9月10日付 803号)