崇徳天皇と御霊信仰

連載・神仏習合の日本宗教史(17)
宗教研究家 杉山正樹

 

崇徳天皇

 「瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」。保元の乱(1156年)に敗れ、讃岐に配流となった第75代崇徳天皇は、仏教に救いを求め46歳で讃岐に薨(みまか)れた。死因は不明とされている。天皇は和歌をこよなく愛された。文頭の歌は、藤原顕輔に下命して編纂させた勅撰和歌集『詞花和歌集』の第七巻に収録される。恋歌との評価がある一方、再び都に戻ることのないご自身の境涯と、断ち難い皇統への想いを「岩に割かるる滝の流れ」になぞらえて詠まれたものとの解釈がある。
 崇徳天皇の曽祖父の白川法皇は、強固な親政を推進することで、堀川・鳥羽・崇徳の三代にわたる院政を実現した。崇徳天皇の運命は、「治天の君」白河法皇に翻弄されるが、これは藤原摂関政治の終焉を強く願う、当時の時代背景を抜きにしては語ることができない。後に、日本三大怨霊の一人として数えられる崇徳天皇の生涯は、『雨月物語』、歌舞伎演目『椿説弓張月』の題材となり日本人の心性をつかむ。先回、香川県琴平町の金刀比羅宮を訪ねた折、坂出市にある白峯御陵聖地に立ち寄ることができた。怨霊と化した天皇がいかにして神となったのか。神仏習合の一つのかたち、御霊信仰について考えてみたい。
 崇徳天皇は元永2年(1119)、鳥羽上皇の第一皇子として生まれる。母は、白河法皇の養女・藤原璋子(待賢門院)であった。5歳で天皇に即位するが、後ろ盾であった白河法皇の崩御に伴い、鳥羽上皇から上皇側妃の藤原得子(美福門院)が生んだ躰仁親王(後の近衛天皇)へと譲位を迫られる。崇徳天皇が、白河法皇と璋子の胤だとする風説(真偽のほどは不明)があり、上皇から遠ざけられたのが理由と囁かれる。

崇徳天皇白峯御陵


 近衛天皇は、病を患い早世するが、鳥羽上皇は崇徳天皇の皇子である重仁親王ではなく、璋子の四宮・雅仁親王を天皇に指名する(後白河天皇)。これにより、崇徳天皇の後嗣の芽は、完全に断たれてしまった。鳥羽上皇が崩御することで、後白河天皇方と崇徳上皇方に朝廷が分裂、保元の乱が勃発する。
 保元の乱では、朝廷勢力の対立に藤原摂関家(北家南家)の争いと当時、力を付けつつあった源氏・平氏が加勢することで権力構造が流動化、結果的に摂関家の影響力が大きく後退し、武士の世を呼び込む契機となった。4年後に起きた平治の乱で、これが決定的なものとなる。
 讃岐に配流された崇徳天皇のその後は、どうだったのであろうか。軍記物語『保元物語』では、後世の安寧を得るため五部大乗経の写経を思い立った崇徳天皇が、和歌を添えて朝廷に八幡か長谷への納経の許可を求めるくだりがある。これに対し後白河天皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑い、納経を拒否。激怒した崇徳天皇は「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と舌先を噛み切り、その血でもって誓状をしたためたとある。『保元物語』がまとめられた当時、後鳥羽院の怨霊が囁かれていた。『太平記』では、天狗の巣窟である愛宕山に陣取り、集結する鬼神たちと天下を大乱に導くための謀議をしているとある。
 最近の研究によれば、讃岐での崇徳天皇の晩年は、妻子も得て穏やかなものであったという。崇徳天皇の怨霊が巷間で騒がれるのは、天皇が亡くなった10年ほど後のこと。当時は、安元3年の大火(京都の三分の一が消失。翌年も大火に見舞われる)をはじめとする数々の厄災が、都を襲った。後白河天皇の近習も相次いで亡くなり、人々は崇徳天皇の怨霊の仕業と噂し合うようになる。
 この事態を深刻に受け止めた後白河天皇は、「讃岐院」の蔑称を改め「崇徳院」の号を追贈した。供養に訪れた西行法師が、埋葬場所も分からないほど荒れ果てていた墓所を「山稜」として整備、清浄に保ち天皇陵として奉祀した。後年、敵方として戦った源義朝の子・頼朝は、菩提を弔うため十三重石塔を建立している。
 江戸後期の国学者・平田篤胤は、朝廷の権威が衰えて武家の世に移ったのは、崇徳天皇の怨霊のためとし、これが京都への崇徳天皇神霊還遷の原点となった(山田雄司『怨霊とは何か』中公新書)。これを受け、孝明天皇・明治天皇による現白峯神宮創建となる。併せて藤原仲麻呂の乱に巻き込まれ、淡路国に配流され崩御された淳仁天皇の霊も合祀された。
 「人神信仰には怨霊系と顕彰神系がある。崇徳天皇や菅原道真の怨霊系人神信仰では、歴史的勝者が敗者の“たましい”を祀り、記憶し、物語化する。」民俗学者の小松和彦はこう語る。筆者が訪れた崇徳天皇御霊は、丁寧に植栽された紫陽花が見頃を迎えていた。「崇徳院の御神霊は、日本の弥栄を祈り続けておられますよ。」参道に咲きほころぶ紫陽花に、そう語りかけられるようであった。
(2023年9月10日付 803号)