『歎異抄講話』の暁烏敏

連載・近代仏教の人と歩み(4)
多田則明

念仏総長と呼ばれた大衆説教師

晩年の暁烏敏

 暁烏敏(あけがらすはや)が明治10年に生まれた石川県白山市のホームページには、敏の歌「十億の人に十億の母あらむも わが母にまさる母ありなむや」が掲げられ、「近代的な哲学思想を広め、日本の思想界に大きな足跡をのこした人物です」と紹介、市では「暁烏敏賞」を制定し敏の功績をたたえ顕彰している。
 ちなみに敏は真宗大学在学時から俳句を作り、高浜虚子に師事して詩人、俳人としても高く評価された。そうした文学的センスが説教にも生かされ、「念仏総長」と愛称されるほどの人気説教師になり、師と仰ぐ清沢満之(きよざわまんし)の近代真宗を大衆の心に浸透させていった。
 半面、戦時中は戦場に赴く門徒らを激励するいわゆる戦時教学を唱え、積極的に国策に協力した。戦後、手のひらを返すように反省したが、その非凡な能力を買われて昭和26年に真宗大谷派宗務総長に就任すると、わずか1年で危機的な宗派財政を回復させ、潔く辞任するという無欲の人でもあった。
 『親鸞と日本主義』(新潮選書)を出した中島岳志との対談「親鸞思想の危うさをめぐって」で五木寛之は、金沢に住んでいた1960年代後半の話として、「タクシーの運転手さんまでが、『暁烏さんはね―』とまるで近所のおじさんのことみたいに気安く話すんです。その一方で暁烏は、戦争中は戦時教学という非常にファナティックな言動をしていた。いったいこの人は何なんだろう、という得体の知れないヌエみたいな印象を持っていました」と語っている。
 今の白山市北安田、真宗大谷派明達寺に長男として生まれた敏は京都の大谷尋常中学校から真宗大学本科に進み、そこで清沢の宗門革新運動に参加する。20歳で独自に『歎異抄』と出会い感銘した敏は、清沢満之を師と仰ぐようになり、佐々木月樵、多田鼎とともに学寮・浩々洞を開き共同生活を始めた。
 明治34年に浩々洞で、仏教用語を使わない仏教雑誌『精神界』の刊行を発案し、編集に携わるようになる。清沢の思想が「精神主義」と呼ばれるようになるのは、この雑誌名による。
 明治36年から『精神界』に「『歎異抄』を読む」記事を8年間55回連載し、蓮如以来、真宗では禁書とされていた『歎異抄』を世に広めた。有名なキャッチコピー「ただ一冊の書物を携えて離れ児島に行けという人があるならば、…『歎異抄』を一部持ちさえすれば結構である」も敏の言葉。同年、清沢が死去すると、敏は浩々洞代表を継ぐ。私の心、生き方の問題として信仰を語る敏の話は、地獄の恐ろしさを聞かせて阿弥陀如来の救いを説き、檀家の信心を維持するのに限界を感じていた全国の若い真宗僧の共感を呼び、敏の『歎異鈔講話』は広く読まれるようになった。清沢だけでは不可能だった近代真宗の大衆浸透が、敏によって可能になったのである。
 しかし、精緻な理論より大衆の心に訴える迫力が売りの敏の語りは時に逸脱し、保守的な本山派から異安心(浄土真宗における異端)扱いを受ける。大正4年に浩々洞代表を辞し、自坊の明達寺に帰った敏は、各地を講演旅行し、多くの信者を獲得するが、宗教紙の「中外日報」に女性関係のスキャンダルが報じられ、バッシングを受けるようになる。妻房子の看病中に看護師と関係を持つなど道徳的に許されないことだが、敏は開き直るように赤裸々に告白し、それが同じ悩みを抱える大衆の共感を呼ぶという展開になった。
 戦時色が強まってきた昭和2年、インド・ヨーロッパを旅行し、ハワイやアメリカで講演した敏は、次第に日本精神を提唱するようになる。例えば、ジャーナリストで神道研究家の米国人メーソンとの対談で「仏教徒は戦争をするか」と聞かれた敏は、「仏教徒である私は、全力を籠めて、戦争に従事しているのであります」と答えている。
 「私は人類愛に燃えているから、戦争もするのである、殺生がしたくないから、涙を呑んで戦さをするのである、仏陀の慈悲は不動明王となり、焔の中に立って降魔の剣を振るわれるのです。日本の精神は天照皇大神の和魂であるが、荒魂となつて戦争に従事せられることもある。世界平和の理想があつて始めて、公明正大に、戦争が宣言せられるのであります」
 そして、「天地の果てにひびけと高声に念仏称へて戦勝を祈る」「奇しきかな我が身のうちに血の湧きて大君の辺に死なむとぞ思ふ」などの歌を作り、若者を戦場に送り出している。
 当時は浄土真宗だけでなくほとんどの宗教・宗派が戦争協力に応じていたので、敏だけが特異なのではない。大衆に身を投じた敏ならではの、即時的な話もあったのであろう。人を見て教えを説いた釈迦の対機説法を思わせる。
 上記の対談で中島岳志は「戦争に行って死ぬことさえ、彼の言葉によって意味づけられたかもしれない。暁烏さんがおっしゃるようにすれば大丈夫だ、浄土へ往生できるんだ、とあたかもスポンジに水が浸みこむように、グラスルーツの人々の心の中にひたひたと入っていく素地があったんだと思います」と、五木寛之は「確かにそういう信頼感というか、親密感があったと思う。ですから、国民全体が間違ったほうに流れていくなら、敢然とただ一人逆流を遡ろうとするより、自分も一緒に流れていくぞ、みたいな感覚があったのではないか。そこに、ファシズムとの親和性を強めていく理由があったのかもしれません」と応じている。中島も五木も、そこに親鸞主義の「危うさ」を見ているのである。それは日本人自身の危うさでもあろう。
 戦時という国家の危機に臨み、敏はいわゆる日本主義に傾斜していく。「大和魂と私たちがいうていながら、その本義を明らかにしてゐませんだので、それを知りたいために目下『古事記』や『日本書紀』の神代の巻の研究に心を向けております。…日本に生れた私が成仏する道には、先づ第一に日本の祖先である神々の生活に触れ、それによって、日本民族の精神の中枢に融け込み、それから日本歴史を自分の精神の背景とし内容として、此処に始めて我が成仏道が成就することを考へるようになった」という思想は、近代的な神仏習合ともいえるのではないか。
 さらに人は社会や国、世界という自分を超えた存在のために力を尽くす、命を懸けるときに、それまで以上の能力を開花させ、自身を成長させる。それは、人には公共心があるからで、社会的動物である人間の本性とも言えよう。敏を反動主義の宗教家と非難するのは当たらない。
 昭和29年、敏は自坊の明達寺に清沢満之の像と、脇侍として合掌する自身の像を安置した臘扇堂を建立し、同年、満77歳で没した。その三回忌に出された敏の全集に、戦時教学に関する部分は選ばれなかった。
(2023年8月10日付 802号)