十河信二/理想を追い求めた新幹線の父

連載・愛国者の肖像(11)
ジャーナリスト 石井康博

 

十河信二

 十河信二(そごうしんじ)は愛媛県新居浜郡中萩村大字中村に明治17年に十河鍋作・ソウの二男として生まれた。同30年には愛媛県尋常中学校東予分校(現:西条高等学校)に入学、このころから純粋で一本気な性格が周りには知られていた。卒業後、上京し、同35年に第一高等学校入学。卒業後、同38年東京帝国大学法科大学政治学科に入学、在学中に東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部)在学のキクと結婚した。当時鉄道院総裁であった後藤新平の説得により、同42年に鉄道院(現:国土交通省、JRグループ)に入庁。以後、十河は後藤新平を生涯の師と仰ぐようになった。
 当時の鉄道院は日本で鉄道が飛躍的に発展する時期で、今でもJR在来線の基準である狭軌(1067ミリ)で全国に早く鉄道網を伸ばすという意見と、広軌(国際標準機、1435ミリ)に全国の鉄道の軌間を変更するという意見に分かれていた。後藤新平は早く全国の鉄道を広軌にしたいと願い、計画案を作成していたが、政治的な抵抗にあい、頓挫した。後藤の薫陶を受けた十河は、その構想を広軌による新幹線で実現させることになる。
 大正6年に鉄道業務を学びに1年間アメリカに留学。鉄道院の経理課長になっていた十河はその能力を遺憾なく発揮していたが、同12年に関東大震災が起こると、内務大臣の後藤新平は震災復興の帝都復興院総裁にも就任し、新しい理想の都市を建設するという東京大改造計画を考えた。この計画は当時の予算を大幅に超えたものだった。後藤が「大風呂敷」と言われた所以である。後藤は鉄道の専門家の十河らを復興院に出向させた。当初の計画よりも小さい予算にはなったが、復興を進め、新しい道路、橋を造り、東京の区画を整理した。しかし十河は政争に巻き込まれ、汚職の汚名を着せられ裁判にかけられてしまう(復興局疑獄事件)。いつの世にも政治闘争の道具としてメディアや裁判などが使われるものだ。一審で有罪となり、控訴審で無罪となったが、その間に十河は職を失ってしまっていた。
 その後、十河は、鉄道院時代の上司で南満州鉄道(満鉄)の総裁になっていた仙石貢から誘われ、昭和5年に満鉄の理事に就任した。同6年、満州事変が勃発、十河は関東軍に協力し、石原莞爾、板垣征四郎と懇意になる。十河は石原莞爾らと主に「王道楽土」「五族(日・朝・満・漢・蒙)協和」をスローガンに理想の国としての満州国の建国を目指した。決して日本の傀儡ではなく、皆が平等に、栄えていく友好的な独立国を考えたのである。
 満洲国の経済政策立案を行う機関・満鉄経済調査会の委員長に就任し、満州の経済の発展に寄与する。満鉄の理事を辞した後には、北支の経済発展のために設立された興中公司の社長に就任した。十河の理想は、満州、中国の興産のために尽くし、彼らの友となることであった。しかし、盧溝橋事件の後、中国との関係は険悪になり、泥沼の日中戦争が始まることになる。本国の政治的な思惑も絡み、十河の理想が実現することなく、興中公司は他の団体に吸収され、十河は同14年に日本に帰ることとなった。
 満蒙開拓青少年義勇軍の会長を務め、後に西条市長を務めるなど、後進の教育や地元の発展に貢献していた十河は、戦後、昭和21年に経営が厳しくなっていた鉄道弘済会の会長に就任する。また、「日本経済復興協会」を設立し、満州の経済を発展させるために用意した経済策をそのまま戦後の復興に用いた。
 昭和24年に発足した「日本国有鉄道」は電車の事故、青函連絡船、宇高連絡船の事故で相次いで総裁が引責辞任するなど危機的な状況になっていた。それゆえ、後任の総裁としてすでに71歳になっていた十河に白羽の矢が立った。当初は辞退していた十河は、昭和30年に国鉄に自主性を与えることを条件に承諾する。そして総裁就任にあたって懸案であった「広軌新幹線」建設の約束を秘密裡に鳩山一郎首相から取り付けることに成功した。それは後藤新平の時代からの長年の夢であった。そして十河は「赤紙を受けて祖国の難に赴く兵士のつもりで、鉄路を枕に討ち死にする覚悟」で職務にあたると就任の辞で述べ、総裁に就任した。
 十河は広軌新幹線建設の準備にかかる。国鉄労組の役員代表と意思疎通を図り、職員の教育、技術開発に投資していく。そして事故のため、責任辞任をしていた技術者の島秀雄を呼び戻し、副総裁格の技術長に迎えた。こうして十河は広軌新幹線建設計画の布石を打っていった。人と技術が重要なのだ。
 十河は妥協せず、最先端の技術を追求し、当時7時間半かかっていた東京・大阪間を3時間で結ぶ夢の超特急が技術的には可能であると発表した。満州で走った特急あじあ号、弾丸列車構想の延長線上に流線形の超特急の青写真が描かれていく。そして同34年、東海道新幹線の起工式にこぎつけた。政治的な根回しを丹念に行い、本当は5年で3千億円かかる予算を1972億円と少なく見積って国会で了承を得たのである。また、当時の大蔵大臣佐藤栄作(後の首相)の助言によって、世界銀行に鉄道建設のための借款を申し出た。それは、政府の方針が変わっても、外国への約束のため、建設を中断させないようにするためであった。
 新幹線の建設が軌道に乗る中、同37年に死者160人、負傷者296人を出す未曾有の大惨事、三河島事故が発生した。十河は犠牲者の遺族の家を訪問し、詫びて回った。総裁室に戻るとずっと泣き続けたという。また少なく見積って承認された建設予算が当初の予定を大幅に超過したため、その責任をとって十河は同38年任期満了で退任した。
 次の大蔵大臣になった田中角栄は、新幹線建設の予算を増額させ、ついに昭和39年10月1日、待ちに待った東海道新幹線の出発式を迎える。そこには十河と島の姿はなかった。十河は出発式の様子をテレビで見ていたという。当日10時に国鉄本社で行われた開業記念式典には招待され、昭和天皇から銀杯を賜った。昭和56年10月3日、国鉄中央鉄道病院で肺炎のため死去。享年97。
 後藤新平、そして石原莞爾と共に夢見た理想の都市、理想の国は政争の故、実現できなかった。しかし、その失敗を活かし、世界一のスピードを誇る東海道新幹線の建設を達成した。今の日本の発展は十河抜きで考えることはできない。
(2023年8月10日付 802号)