船の安全祈る金比羅信仰

連載・神仏習合の日本宗教史(16)
宗教研究家 杉山正樹

 

金毘羅宮御本宮

 「象の眼の笑ひかけたり山桜」。俳人で文人画家の与謝蕪村は50代初めに讃岐を訪れ、山桜が咲きこぼれる春たけなわの象頭山を遠望し、象の目が笑っているようだと詠じた。名勝・象頭山は、琴平街道から眺めた山容が象の頭に似ていることからこう名付けられ、目に当たる中腹に金刀比羅宮が鎮座している。
 標高538メートルの象頭山は、琴平町と三豊市、善通寺市にまたがる独立峰の霊山で、古来より出航の際に天気を予測する日和山として利用されてきた。とりわけ中腹に鎮座する金刀比羅宮は「板子一枚下は地獄」、瀬戸内海を航行する船乗りの安全を護る「海の神」として、「讃岐のこんぴらさん」の愛称で親しまれている。
 明治初期の神仏分離以前は、真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして金毘羅大権現が祀られ、その別当として寺中の金光院(現在の金刀比羅宮)が奉斎をしていた。元々の金比羅神は、本堂本尊の釈迦如来や伽藍を守護する護法善神であったが、慶長年間に金光院第四代別当職・金剛坊宥盛が、その霊験を全国に広め信仰の中心に据え置かれるようになった。宥盛は、金比羅信仰中興の祖となり、現在は奥宮にて厳魂彦命の神名で祀られている。
 金比羅の語源は、サンスクリット語のクンビーラ(Kumbhira)からの音写で、ヒンドゥー教のガンジス川のワニ神が、仏教に取り入れられ守護神となったものである。松尾寺の縁起によれば、大宝年間に役小角が象頭山に登った折、インドの霊鷲山に住するクンビーラの神験に遭ったのが、開山の由来とされている。クンビーラは、ガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金比羅大権現が海上交通の守り神として信仰される所以となった。大きな港を見下ろす全国各地の山の上では、金毘羅宮もしくは金毘羅権現社が建立され金毘羅権現として祀られている。

女神ガンガーを乗せガンジス川を渡るクンビーラ

 金比羅信仰が船乗りに崇敬され、全国に広がった理由の一つに瀬戸内海の塩飽(しわく)諸島を拠点に戦国時代に活躍した塩飽水軍の働きがある。塩飽水軍は金毘羅権現を深く信仰し、全国の港で金毘羅信仰を広めることに貢献した。また生前の崇徳天皇が松尾寺境内の古籠所に参籠し、その附近の御所之尾を行宮していた経緯から、崩御の翌年の永万元年(1165)に松尾寺本殿に合祀された。御霊信仰の関係で、同宮は皇室に崇敬され群を抜く霊威を獲得するようになった。
 新しい船が造られると、船主は船頭や船員を伴い金毘羅権現を参拝、船の絵馬を奉納するのが習わしになった。江戸時代には、海が荒れて船が難破しないよう船頭が、髷を切って金毘羅神に祈誓するという信仰も生まれた。ちなみに船乗りの金毘羅信仰者には、蟹・一部の川魚・韮・海糠(あみ)を食べてはならないという禁忌がある。これらを食した場合は、船中に必ず祟りがあるとされた。
 江戸時代には「伊勢参り」と並んで「こんぴら参り」が盛んとなり、庶民信仰として大いに興隆した。これに伴い四国には、丸亀街道、多度津街道、高松街道、阿波街道、伊予・土佐街道をはじめとする「金毘羅街道」が整備される。江戸時代の庶民には、金毘羅参りの旅費は負担が大きいので、選出された講員が代表として参詣する「金毘羅講」も生まれた。清水次郎長と共に宿敵を討ち果たした遠州(静岡県)の森の石松は、親分の御礼参りの代参で金毘羅参りをしている。
 明治に入ると金毘羅宮は、神仏分離の受難に遭遇、主祭神は金比羅権現の垂迹とされる大物主と同体とされ、社名は琴平神社(その後、金刀比羅宮)に改称、多くの仏具が焼かれ別当の金光院は還俗の後、琴平神社にその一切を譲り消滅してしまう。
 現在の「こんぴらさん」は年間400万人もの観光客が訪れ、香川の人気観光名所となっている。境内には近代洋画家・高橋由一館が開設され、また重要文化財の表書院には、円山応挙や邨田丹陵が寄進した障壁画が飾られ、芸術色の高い文化施設の一面を窺わせる。四国路の春を告げる風物詩として、昭和60年からは「四国こんぴら歌舞伎大芝居」も催されるようになった。
 785段の石段の歩みと共に、様々な人の努力で大切に守られてきた文化財。訪れた参詣者は、その一つ一つから「こんぴらさん」の歴史を語りかけられるに違いない。庶民の守り神であると同時に貴重な文化遺産である金刀比羅宮は、我々日本人が大切に守護して行かなければならない神仏習合の聖地でもある。