世界につながる祇園祭

連載・京都宗教散歩(21)
ジャーナリスト 竹谷文男

京町家の中にある会所は宵山の風情を楽しめる

 日本三大祭りの一つ京都の祇園祭が7月、コロナ禍明けの制限無しで盛大に斎行された。月初めから1か月続く一連の神事には、祇園の八坂神社が主催する神事と、町衆である山鉾町が主催する山鉾巡行がある。17日の前祭(さきのまつり)と24日の後祭(あとのまつり)では華やかな装飾を施した巨大な山鉾が京都市内を巡行するが、その3日前から前夜祭である「宵山」があって、山鉾を出す各町内の会所で自慢の豪華な懸物(かけもの)や神像などを一般に公開する。古いものは応仁の乱以前から町の豪商が秘蔵してきた“宝物”を間近で見られるとあって、宵山にも多くの人が訪れる。
 夕方、そぞろ歩きしながら会所を回っていると、浴衣姿の小学生の女児たちが御札や手拭い、ろうそくなどを並べて売る「わらべ歌」が、京都弁で聞こえて来る。
 「お守りは〜これより出ます。常は〜出ません今晩限り。ご信心のおん方様は〜受けてお帰りなされませ〜。ろうそく一丁献じられましょう〜」。
 普段は聞くこともない女児たちのわらべ歌に郷愁を感じるのは、旅行者だけでなく京都に住む人々も同じだ。可愛い歌声に聞き惚れて、会所の神像や懸装品の前に設けられたろうそく台に献火する人も多い。わらべ歌を歌うことは、町衆が子供たちに商売を習わせるよい機会ともなってきた。
 巡行する山鉾は、車輪の付いた山車に載せられて引かれる。平安京以来、街は条里制によって碁盤の目のように区切られているので、山鉾が四つ辻で方向を変えるときは直角に向きを変える。この時、大きな前輪の下に割竹が敷かれ、手桶の水をかけて滑りをよくして冷ましながら、引き手全員が綱を横に引張り山車の向きを変える。“辻回し”と呼ばれる見所の一つで、やんやの喝采が湧く。

函谷鉾の会所に展示されたタペストリー「イサクのための嫁選び」

 京の町が条里制によって区切られていることから、明治時代に小学校が設置されるときの通学区はそれを利用し、各地域は「学区」と呼ばれている。山鉾を担当する地区もまた学区ごとに区分けされることが多い。これも山鉾が地域に根付いて存続してきた理由の一つである。ちなみに明治に入って小学校が設置されたのは、京都が全国で初めてだった。
 山鉾が表現しているテーマは様々で、また山鉾に懸ける懸物(かけもの)に描かれたモチーフも様々である。前祭で引かれる函谷鉾(かんこぼこ)は、中国の斉の孟嘗君が秦から逃れる時に夜明け前の函谷関を通過する際、部下に鶏の鳴き声を真似させて夜明けだと思わせて関を通過した故事に由来する。しかし、山車の前懸(まえかけ)で用いられるタペストリーは、旧約聖書創世記第24章のアブラハムの息子「イサクのための嫁選び」を描いている。裏面には享保3年の記載があり、ゴブラン織の舶来品(重要文化財)。これがキリシタン禁教下の江戸時代に毎年、京の街中を堂々と巡行していた。会所は四条烏丸の近くにあり、多くの見学者が足を運んだ。
 室町通りに会所のある鶏鉾は、高天原神話において天岩戸にこもられた天照大神を常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)が鳴いて導き出した故事に由来する。山車の後ろに懸かる「見送」は、江戸期に輸入されたベルギー製タペストリーで、ホメロスの叙事詩『イーリアス』のトロイ戦争の一場面、出陣する英雄ヘクトールが妻子と別れる場面を描く(重要文化財)。

後祭で巡行する山鉾・鈴鹿山の上に立つ瀬織津姫神像

 後祭の山鉾・鈴鹿山に掲げられている御神体人形は瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)。鈴鹿峠で通行人に害を為す鬼を退治した鈴鹿明神で、神仏習合によって鈴鹿権現とも言われる。神面を付け、右手には中啓(扇子の一種)を左手には大長刀を立てて持ち、腰には太刀を佩(は)く勇ましい女性神像だ。
 鈴鹿山を出す会所は場之町。かつての京から東海道への起点で、運送業を営む町衆が多かった。京から東国へは、近江から鈴鹿峠を越えて伊勢へ抜ける。鈴鹿峠はけわしく盗賊も出る難所だったが、京から東国への国土軸上にあった。そこで、鈴鹿山の鬼を退治した瀬織津姫の御神像が場之町から出されてきた。『古事記』や『日本書紀』には出てこないが神道の大祓詞では重要な役割を果たす瀬織津姫が、祇園祭では堂々と現われる。
 祇園祭は平安時代に始まり、応仁の乱、戦国時代、江戸期、幕末維新を越えて続いてきた。保津川を開削した角倉了以など京都の豪商たちはまた、東南アジアとの交易で巨万の富を築いた。京都は内陸の盆地にありながらも淀川と琵琶湖の水運によって海に繋がり、彼らの想いは常に海外に向かっていたはずだ。鎖国の江戸期にあっても、きらびやかな山鉾に豪華な舶来の懸物を懸けて平気で町中を練り歩いていた祇園祭は、町衆たちの心意気を示していただけでなく、鎖国によって海外への途を断たれた彼らの“見果てぬ夢”を、その深いところで贅や粋を競いながら表わしていたのではないだろうか。(2023年8月10日付)