日本人の富士信仰と家康

連載・宗教から家康を読む(5)
多田則明

三保の海岸から見た富士山

 日本人の宗教は古来から「山の宗教」で、代表的な修行の山、霊山の一つが富士山である。晩年の家康が駿河城を拠点にしたのは、少年時代の懐かしさもあっただろうが、富士を仰ぐ景観も大きな要素だったと思う。
 富士山の周りには富士信仰の浅間神社(せんげんじんじゃ)が多くある。「浅間」は古くは火山を意味し、お祭りしているのは、富士山を神格化した浅間大神(浅間神)や記紀神話に登場するコノハナサクヤヒメなど。ヒメは天孫降臨したニニギノミコトの子を身籠るが、国津神の子ではないかとのニニギの疑いを晴らすため、火を放った産屋で3人の子を産み、その1人の孫が初代の神武天皇という物語りがある。この壮絶な物語から、ヒメは火山の神になったのだろう。
 富士山はその秀麗な山容から、古くから霊妙な神山として崇められていたが、奈良時代末から火山活動が活発化し、火山神の信仰(浅間信仰)として全国に広がる。浅間信仰の神社は全国に1300社ほどあり、富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座し、富士山からの伏流水が湧く富士山本宮浅間大社が総本宮である。
 霊山で発達した修験道は、日本古来のアニミズムと密教が融合して生まれた宗教で、開祖とされる役行者は文武天皇の699年に伊豆に流されたとき、夜は富士山に飛んできて修行したとの伝説がある。
 噴火が鎮まった12世紀に富士登山を繰り返したのが、富士山修験道の開祖とされる駿河の末代(まつだい)上人で、山頂に大日寺を建てているから、大日如来を中心仏とする密教の僧であろう。末代は山麓の村山に興法寺を建て、富士山修験道の拠点とした。村山修験は、後に天台宗系の修験道を束ねる聖護院に属したので、富士山の修験は聖護院が取り仕切るようになる。村山修験は駿府の今川氏に庇護され、富士山頂の管理権を独占して栄えたが、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、今川氏が滅亡に向かうと衰亡していく。

静岡浅間神社

 鎌倉時代末から室町時代にかけて、浄土思想の広まりを背景に、修験道も庶民に広がる。インド仏教の須弥山信仰が富士山に投影され、富士山頂が極楽浄土だというイメージもできてきた。戦国時代になると、山伏や御使(おし)のガイドで庶民も富士登山するようになり、次第に大衆登山化したのが江戸時代の信仰組織である「富士講」につながっていく。地域の人たちがお金を積み立て、代表者が富士登山するという仕組みで、各地に富士山のミニアチュアの富士塚が築かれた。
 駿府時代の家康が支援したのが駿府城の南近くにある静岡浅間神社。幼少時に今川氏の人質として臨済寺に預けられていた家康は14歳の時、同社で元服式を行っている。
 今川から独立し、三河・遠江の戦国大名になると、家康は静岡の語源にもなった賤機山(しずはたやま)にある武田氏の賤機山城を攻めるにあたり、「攻略できたならば壮麗な社殿を再建する」との誓いを立てた上で、同社社殿を焼き払った。そして、見事、城を落とし、駿河を領有すると、現在のような立派な社殿を建造したのである。さらに家康が大御所として駿府城にいた1607年には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽を奉納している。
 以来、静岡浅間神社は家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、神職と社僧の装束類も幕府から下されるなど将軍家から手厚く庇護され栄えた。