『日本人と中国人』『青玉獅子香炉』『阿片戦争』陳舜臣(1924〜2015)

連載・文学でたどる日本の近現代(40)
在米文芸評論家 伊藤武司

陳舜臣

神戸生まれの中国人
 昨年、日中国交正常化50周年を迎えた。国交正常化の翌年、横浜と上海、神戸と天津の間に友好都市の関係が結ばれている。両国は難しい局面をくぐりぬけながら学術や文化交流を続け、陳舜臣はこうした歴史を心に深く刻みながら生きた人である。
 1924年、陳は神戸中央区元町で生まれた。父母は日本統治下の台湾籍の中国人。父祖の地は福建省で、台湾で貿易商を営んでいた一家は神戸へ移り住んだ。神戸生まれで日本育ち、バイリンガルの陳は大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)でヒンディー語、ペルシャ語を専攻し、先輩に芥川賞作家・庄野潤三が、一学年下にはモンゴル語、中国語を学んだ司馬遼太郎がいる。司馬が日本と中国に関心を抱いたように陳は中国と日本に興味をもち、文学上の嗜好も類似して知的な交流があった。
 44歳で中国を舞台にした小説『青玉獅子香炉(せいぎょくししこうろ)』で直木賞を受賞。陳の持ち味は、中国人でなければ表現できない素材を、分かりやすく叙述すること。少年時代からミステリーに親しみ、作家としては推理小説から歴史小説、史伝、文化評論、翻訳と幅広く活躍した。
 陳の文学は四つに分類され、一番は壮大な中国歴史小説・西域物で、文学史上このジャンルの開拓者となった。二番目はスリラー小説で、執筆活動を始めるきっかけとなった37歳での処女作『枯草の根』は江戸川乱歩賞を得た。三番目は、日中の文化・文明論や紀行文、随筆である。最後に『インド三国志』『天竺への道』のムガール帝国や三蔵法師などインド拠点の作品群がある。講談社『陳舜臣全集』全27巻を解説した中国古代史家の稲畑耕一郎は、「現代の文人、日中の近代の相異なる影の中に、身と心とを置いて仕事をしてきた作家」と『陳舜臣論序説』で解説している。
 短編『青玉獅子香炉』のコメントで賞を推薦した大佛次郎は、「日本の作家が容易に持ち得ないのびのびと大まかな風格を、このひとは持っている」と喝破した。既に大著『阿片戦争』を上梓しており、ミステリーと歴史小説を同時に著作するという並はずれた実力を見せての受賞であった。その2年後には『王領よふたたび』『孔雀の道』で日本推理作家協会賞を獲得し、他に『三色の家』『月をのせた海』『黒いヒマラヤ』『王領よふたたび』『柊の家』などを上梓した。
 評論『日本人と中国人』は、時代の要請から誕生した作品といえる。イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』と同じ昭和46年のベストセラーである。執筆の動機を「まえがき」に「日中の友好のうえにしか、この本の作者には安住の場所がない。…陥穽が、あちこちにあることはよく知っている。その危険を進んで冒そうとするのは、やむにやまれぬものがあるからだ」と吐露。ニクソンの中国電撃訪問が昭和47年、続いて日中国交正常化が成り、歴史的に大きく移り変わる気運の中、「日本と中国の相互理解に、すこしでも役に立てばと思って」いる「日本育ちの中国人」としての執筆であった。家の中では中国語、外では日本語という二つの言語・文化圏を自由に行き来する人間として多くの作品を発表している。
 小説『青玉獅子香炉』の舞台は、孫文の辛亥革命の蜂起で清王朝の求心力が消失していく動乱期。主人公・李同源と女学校の教師・素英を主要人物に、一個の香炉の数奇な運命を追い求める凄絶な旅と人生模様が描かれている。
 北京の工芸店主「潤古堂」の王福生は「玉がほんとうに生きるためには、人間の膚からエッセンスを吸い取らねばならない」が口癖。「それが女性の膚である」という信仰を頑固に守る老職人である。
 「玉」とはサファイヤで、翡翠や王器づくりが専門の老人に子供や孫はいない。少し前に秀才の息子が病死し、義理の娘の素英がいるばかり。彼の唯一の望みは、「心ゆくまで自分の技倆を発揮し、後世に残る作品を」作ることで、「玉のもつ艶は、古くから中国人の憧れであった」。なかでも「青玉」は最高のものと珍重され歴代の皇帝に献上される秘宝。その一番は新疆産の「軟玉」、雲南やビルマ北東部でも産するが硬すぎて玉器の彫刻には適さないのだ。
 親方がしがみつく妙な「神がかりの説」と「形は第二で、魂が第一」と力説する言葉に対して、「師匠も舌を巻くような腕をもっていた」23歳の同源は、新しい世代の人間として「やはり技術だ」と心の中でつぶやく。
 読後に思い浮かんだのは柳宗悦の『民藝四十年』と松本清張の『或る「小倉日記」伝』。朝鮮の青磁器や古美術に魅せられた柳宗悦と、森鴎外の遺した日記文をひたむきに探索する主人公が同源の人生と重なって映る。
 陳と同じ1924年生まれの中国人作家に邱永漢がいる。台湾出身の邱は日本女性の母をもち、『香港』で直木賞の受賞者、経済評論家、実業家でもあった。両者の作品の佇まいにはどこか似かよった傾向が感じられる。

中国の歴史小説群
 『青玉獅子香炉』のストーリーを追うと、清王朝が瓦解し中華民国が誕生した後も、廃帝・溥儀は紫禁城に健在であった。広大な故宮にはおびただしい書画、書籍、陶磁器、青銅器が秘蔵されていた。物語は大正12年の春、一人の宦官の来店から始まる。南京で中華民国の成立が宣言された年で、王福生に「乾隆三十四年」の銘のある香炉の写真を見せ、贋物の制作を注文してきたのだ。オリジナルの香炉は、清の領土が最大限になった乾隆帝の時代の逸品で、アメリカ人蒐集家の手に渡り故宮にはない。ところが親方が病に倒れ、代わりに同源が作ることになった。
 同源は「一と晩じゅう」素英の「膚に抱かれた玉」を思い、素英が座る仕事場で彫り、磨きつづけた。真剣な作業のさ中、同源はある悟りに達する。それは「自分のつくる香炉が師匠がつくろうとしたものよりも、みごとなものになるはずだ」という確信である。なぜなら、誰よりも「はげしく彼は素英を愛していると信じたから」。やがて一世一代の「会心の作」が完成、同源は精魂をかたむけた青玉と混然一体化していた。複製した模造品は本物に負けない出来栄えで、妖しい美しさで輝き、青玉獅子香炉と対面すると「陶酔の境地」になるのだった。やがて同源の香炉は故宮奥深く何十万という秘宝物にまじって収蔵されていった。
 北京では相次ぐ動乱と戦火の噂が広まり、紫禁城の文物は「水路と陸路の両コースに分散され」、列車・トラック・船で南京へ、さらに上海、漢口、重慶、成都、奥地の湖南、貴州の各地へ転々と移送・疎開されていった。内戦にくわえ盧溝橋事件をきっかけに日本軍との間に新たな戦争が勃発。南京には日本軍の空襲が起こり、海峡をはさむ台湾ばかりか欧米諸国へ流出した秘蔵品も多かった。同源の香炉が移送の途中ですりかえられるという創作上の着想が、小説を一段と魅力あるものにしている。その後、同源と素英は青玉の運命の糸に導かれるまま、「六十に近くになって」アメリカに渡る。
 『秘本三国志』の「あとがき」には「物語になる時代は、なんといっても乱世であろう。そこには戦闘があり、謀略があり、さまざまな起伏、興亡がある」と記す。つまり、歴史物・時代物はむろん、現代物であっても、動乱期に生きた人間の物語には面白みが付加され、読んで愉しく感動できる。
 『シルクロードの旅』『北京の旅』など中国大陸を旅したのびやかなリズムの旅行記も、読者の心を飽きさせない。清新な空気につつまれた『敦煌の旅』は、井上靖の小説『敦煌』から15年後のベストセラーで、大作『阿片戦争』に続く小説群は、典籍・史料を活用し、自己の見解もはさみこむ。近代化の入口で起きたアヘン戦争で歴史の先頭を走った林則徐の間に虚構の群像を融合させ、イギリス艦隊との戦闘シーンを添えながらも、主眼はあくまでも人だ。人間が歴史をつくり、その歴史が人間を動かすというロジックから、万人が普遍的にもつ人間の本性を探ろうとするのが陳である。
 『阿片戦争』の主人公はアモイの豪商・連維材で、「怒濤の時代」の実相を再構築している。『太平天国』では長崎行の唐船に乗りこむ連維材の息子が、太平天国の英雄・洪秀全と共に活躍する。陳は『秘本三国志』を構想したとき「直前に一度、そして連載中に二度、それぞれ一カ月ほど中国を旅行した」という。そこで得た観念、先祖の国に対する興味はむろん、作家としてのモチベーションが「二十世紀の後半を生きる人間の目で、千七百年ほどまえの時代を書こうとした」という。
 以下『小説マルコ・ポーロ』『山河太平記』『江は流れず―小説日清戦争』、明朝末期の中国の英雄として称えられる鄭成功の足跡をたどる『旋風に告げよ』、『小説十八史略』と続く。司馬の名著『空海の風景』に次ぐ『曼荼羅の人 空海求法伝』では、長安を舞台に空海や橘速勢らを配置した。吉川英治文学賞の『諸葛孔明』は、史実に基づくみずみずしい筆さばきが印象的で、テレビで放映された歴史小説『琉球の風』は薩摩藩の攻略で苦境に陥った琉球王国に生きる人々をリアルに描いた。

日中の比較文化論
 文化論『日本人と中国人』は、「実を取って名を捨てる」「実利主義」の日本人に対して、「名を取って実を捨て」メンツを重視する「形式主義」の中国人を対照的に論ずる。また、天皇に親近感をいだく日本人の血への信仰である「尊血主義」について「中華思想」の中国文明観を対置し、日本人の美意識の解明や、さらに「竜」と「鳳」のコンセプトでシンボライズした中国文化・中華思想の解析は独自の説得力を放っている。
 『対談 中国を考える』では司馬遼太郎との日中の歴史や風俗や文化をのびのびと語り合う。司馬は「陳舜臣氏は年少のころからの友人で、いわゆる璽汝(じじょ)の仲である」と述べ、歴史学者・奈良本辰也との『日本と中国近代の幕開け』では両国の近代化の差異を比較している。
 陳の博学は15巻からなる『中国史』の著述で明らかで、『中国画人伝』『中国詩人伝』『茶事遍路』、翻訳『ルバイヤート』など歴史・美術・漢詩・詩歌・文化などの潤沢な造詣と見識にあふれている。日中友好の絆を強める志をもち続けた陳の軌跡は、新しい中国歴史小説のジャンルを切りひらいた点や、10以上の受賞歴が如述に物語っている。
 1990年に日本国籍を取得。96年に芸術院会員となり、98年には日中両国の文化交流の尽力により勲三等瑞宝章を授与された。2014年、神戸市に「陳舜臣アジア文藝館」が開設された翌年、90歳で老衰死した。