皇室の菩提寺・泉涌寺

連載・神仏習合の日本宗教史(23)
宗教研究家 杉山正樹

 

順徳天皇

 「神事を先とし他事を後とす」和歌に秀でた第84代順徳天皇の『禁秘抄』の一文は、この後「朝夕に敬神の叡慮懈怠(けたい)なし」と続き、天皇にとって最も大切なご公務が宮中祭祀であると記す。第36代孝徳天皇は、「先ず以て神祇を祭鎮めて、然して後に政事を議るべし」との治政方針を打ち出された。「神事優先」は、神聖な行事や重要なことを優先し、それ以外のことは後回しにすることわざとして、私たち日本人の心に「敬神崇祖」の精神伝統として息づいている。
 神仏習合は、日本文化の多様性と寛容性を端緒に示す日本宗教史の新たな幕開けであった。天皇家の祭祀に焦点をあてるとき、民衆の動きと呼応する形で神祇と仏教が立場を棲み分け、公事と私事の役割を絶妙に分担した様子が浮かび上がる。
 天皇の祭祀の原型は、先史時代の古代部族の祭祀王の伝統と密接に関連する神祇信仰であった。それが、唐の祀令や律令・礼などを参考に、日本独自の祭祀形態として体系化が進められ、8世紀の大宝年間の神祇令としてまとまった。当時の神祇令には、二月の祈年祭(豊穣祈願)、六・十二月の月次祭、十一月の新嘗祭(収穫)など、今日の宮中祭祀に見られる規定を幾つも確認することができる。宮中祭祀は、国家の繁栄と民の安寧を祈る天皇が行うまつり(祭=政)ごとの中心となり、「神事優先」が御歴代の天皇の御事となった。

仁和寺の御室桜

 6世紀に公伝した仏教は、「蕃神」として区別されつつも、次第に日本の宗教文化に溶け込み、朝廷とのかかわりを深めた。やがて、天皇を中心とする国家体制の護持に大きな役割を果たすことを求められ、宮中護国法会の体制に組み込まれていく。
 空海・最澄の入唐後は、密教の伝来で玉体護持の役割が新たに加えられ、これが仏教修法の画期となった。幼名の天皇の即位、皇位継承争いなどの事象が続くことで9世紀半ば以降は、密教の呪法により天皇の身体を護持するという考え方が広まった。
 また、天皇や皇后のために祈願や追善を行う護願寺が建立されるのもこの頃であった。空海が修法し鎮護国家を目的とした後七日御修法(ごしちにちみしほ)、常暁が唐から伝えた怨敵逆臣の調伏呪法・大元帥法は、しだいに玉体安穏という役割が打ち出されるようになる。
 仏教伝来は、天皇の身分にも大きな影響を与えた。退位した天皇が、仏教に帰依し出家して太上法皇となる習いである。歴代では実に35人の法皇が存在した。また、世俗における不遇・不運などをきっかけに出家する皇族が相次いだ。この結果、皇室・公家とかかわりの深い仁和寺などの門跡寺院(全国に31か寺)の建立を見るに至る。
 天皇の即位灌頂も特筆すべき即位式密教化の表れとなった。即位灌頂の初見は、第92代伏見天皇とされるが(小川剛生)第121代孝明天皇まで続く。修法の中身は秘儀とされたが、近年の研究では、高御座に着座してから印契を結び真言を唱えていたとされ、密教が天皇即位のしるしに用いられた時期があったことが明らかにされた。

泉涌寺


 鎌倉時代から戦国時代は、戦乱により多くの宮中祭祀が中断し廃絶となった。とりわけ応仁・文明の乱の混乱が大きく、その影響は近世まで続いた。朝廷の財政が貧窮したため、浄土宗・禅宗への接近、勅願寺の認定・国師の勅許などが図られ収入源の確保が求められた。宮中祭祀に代わり宮廷仏事がこれを相承したが、戦国時代が終わると、ようやく後陽成天皇の御代で復古を見るに至る。
 泉涌寺は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の総本山である。開山は鎌倉時代の月輪大師俊芿(しゅんじょう)上人で、天台・東密・禅宗・浄土の四宗兼学の道場として栄えた。皇室との関係が深く、皇室の菩提寺(皇室香華院)として「御寺(みてら)」と呼ばれている。
 四条天皇が12歳で崩御した折、同寺で葬儀が実施されたのが始まりで、南北朝時代以降は、9代続けて天皇の火葬所となる。後水尾天皇から孝明天皇、そしてその皇后はすべて泉涌寺の月輪陵(もしくは後月輪陵)と呼ばれる区画に埋葬された。歴代天皇・皇族の25陵5灰塚、9墓に及ぶ。
 泉涌寺では朝夕、同寺の僧侶によって歴代天皇の位牌への読経がなされる。各天皇の祥月命日には、皇室の代理として宮内庁京都事務所からの参拝が行われるという。国内が大混乱に陥った戦国時代、皇統の危機を護りこれを繋いだのは、仏(ほとけ)の加護であったと思うのは筆者ばかりであろうか。

(2024年4月10日付 810号)