豊臣秀長/兄秀吉を天下人にした最強の補佐役

連載・愛国者の肖像(18)
ジャーナリスト 石井康博

豊臣秀長

 豊臣秀長は天文9年(1540)、尾張国愛知郡中村(現:名古屋市中村区)に豊臣秀吉の異母弟として父・竹阿弥と母・仲の間に生まれた(諸説あり)。幼名は「小竹」。百姓の子として平穏な日々を暮らしていたが、永禄4年(1561)に兄秀吉の勧めで共に織田信長に仕えるようになり、武士としての道を歩み始めた。以後終始補佐役として兄秀吉を支えた。
 織田信長が美濃国に標準を合わせ、斎藤龍興との戦いを始めた後には、兄秀吉の補佐として主に居城を守るなどの役割を果たしていた。永禄9年(1566)一夜城と言われる墨俣城の築城の際には蜂須賀小六(正勝)、前野長康、その他の土豪衆に協力を要請し、兄を支えて調整役に徹した。城の完成の後には、龍興の元から離反する武将が後を絶たなくなったが、その調略の役目は秀吉が果たし、その武将たちを懐柔し、秀吉と行動を共に行うように仕向けるのはいつも調整役の秀長の役目であった。
 その後も主君信長の勢力範囲が拡大するに伴い、様々な戦いに兄と共に参加し、実戦経験を積んでいく。人が嫌がる危険な任務をこなし、その温厚な人柄の故、兄からも周りからも信頼され慕われていた。秀吉が信長の家来として戦功を重ねていくのも秀長という縁の下の力持ちがいたからであった。元亀元年(1570)の金ヶ崎の戦いでは織田信長の義弟・浅井長政の突然の裏切りのため敗走した際、秀吉は殿(しんがり)をつとめ追撃を食い止めた。秀長は金ヶ崎城で決死の覚悟で残り防戦し、兄を命がけで助けた。
 長年の戦いの末、信長が浅井、朝倉両氏を滅ぼした後、秀吉はその戦功により旧浅井領を領地として所有するようになる。今浜を長浜と改め、長浜城を築城。商工業を活性化し、国友村で鉄砲の本格的な生産を始めた。秀長は元々敵の領地であった土地の人々を懐柔し、ここでも調整役に徹して、秀吉の統治を円滑にした。この時から秀吉は長浜で、加藤清正、福島正則、石田三成など武芸や学問に秀でた優秀な若者を召し抱え、将来の指導者として育てていく。そして秀長は自身直属の家来として藤堂高虎を召し抱え、育てた。
 信長の命で秀吉が播磨・但馬をはじめ中国地方を攻めるようになると、秀長も同行し、毛利輝元と対峙するようになる。秀長は但馬の“天空の城”竹田城の城主を任され、4万石の領地を治めた。また、秀吉の戦地での補佐と占領地の内治、周辺の調略活動も行った。そして宇喜多直家が織田信長に寝返り、その7歳の子(後の宇喜多秀家)が人質として秀吉のもとに来ると、秀長は秀家を可愛がり、後に自身の養女を嫁として嫁がせている。
 秀長は単独で但馬全体を攻略するように秀吉から命を受け、それまで兄のもとで力をつけてきた秀長は調略と武力により短期間で但馬を平定。ここから秀長は単独で武将としての成功を収めるようになる。その但馬を起点として秀吉は鳥取城を有名な兵糧攻めで落とした。その頃、秀長は従五位美濃守の官位を受け、12万石を領有するまでになった。
 秀吉が備中高松城で水攻めを行い、毛利勢を圧迫しつつある最中、天正10年(1582)6月、明智光秀の謀反で織田信長が本能寺で自刃したとの知らせが届く。秀吉は急いで毛利との和議を締結し、信長の弔い合戦のため、急いで京都へ向かった。「中国大返し」である。秀長はこの時は殿の役目を果たし、また光秀との決戦、山崎の戦いでも戦功をあげた。信長の家臣間の清須会議を終え、名実ともに最大の領土を手中に収めた秀吉の下、秀長はひたすら新しい領地の人心を掌握し、寛大な治世を行った。
 柴田勝家との戦いでも秀長は活躍した。秀長は賤ヶ岳の戦いで、佐久間盛政の奇襲攻撃を受けても持ちこたえ、美濃に出ていた秀吉本隊の合流を待ち(美濃大返し)、到着と同時に柴田勝家本隊を急襲した。同12年の徳川家康との戦いでは、小牧長久手の戦いの間、秀長は家康側についた北畠信雄を攻め、伊勢・伊賀の諸城を陥落させた。そのおかげで、小牧長久手の戦いで敗れたにもかかわらず、結果的に家康と有利な条件で講和にこぎつけることができた。
 その後、秀長は単独で紀州、四国を平定し、九州全島の平定も秀長が行った。秀吉の陰に隠れているが秀長は記録を見てみると数多くの戦ですべて勝利していることがわかる。豊臣秀長こそ戦国最強の武将だったのである。温厚な性格故に武将たちの調整役に徹し、功名も求めず、ひたすら兄の補佐役に徹した秀長はその勝利を自分の手柄とはしなかった。
 天下人になった秀吉は関白、太政大臣になり、それに伴い、秀長も権大納言となり、大和・河内140万石を治める大名になった。また、秀長は家臣から信頼された。多くの武将が秀長にとりなしを求め、秀吉の逆鱗に触れることなく命拾いしている。また、無駄使いをせず、金は専ら争いごとの解決に使ったので、巨額な富を蓄えた。
 長年病気に羅っていた秀長は、天正19年(1591)1月22日、郡山城内で病死した。享年52。兄秀吉からは補佐役として信頼され、また秀吉の家臣たちからも慕われ、領民からも尊敬された人物であった。もし豊臣秀長がもう少し長生きしていたら、秀吉が自分の家族や家臣を殺したりせず、日本と朝鮮の双方に悲劇をもたらした文禄・慶長の役も起こさなかったのではないか。豊臣家が滅びることもなかっただろう。秀長の隠れた功績のおかげで秀吉による天下統一が実現し、平和な日本の礎が築かれた。

(2024年4月10日付 810号)