『雁の寺』『越前竹人形』水上勉(1919~2004)

連載・文学でたどる日本の近現代(46)
在米文芸評論家 伊藤武司

水上勉

今年は没後20年
 今年は、水上勉(みずかみ・つとむ)の没後20年にあたる。名作『雁の寺』で直木賞を得た水上は、大正8年、福井県大飯郡本郷村(現・おおい町)の集落の、大工の家の5人兄弟の次男として生まれた。子だくさんのボロ家は、もらい風呂と電燈のない極貧生活を送っている。
 10歳で京都の寺院の小僧として出されるが、寺の扱いに反発し二度も脱走。この辺の生い立ちは金沢生まれの犀星も寺に預けられていて似ている。中学卒業後、立命館大学に入学するも退学。19歳で満州へ渡ったが、結核のため昭和13年に帰国。同棲と結婚・離婚もあり不本意な前半生であった。
 28歳の時、宇野浩二の推薦で作家デビュー。昭和22年、自伝的な私小説『フライパンの歌』がベストセラーに。終戦直後の、一人立ちできない作家と自立心の強い妻と子との貧乏生活を明るく描いている。
 ところがその後、妻が生活苦から家出し、自身は結核に罹り、長い療養生活に追い込まれた。筆を折り、生活苦のため行商など30以上の職業を転々とした。こうした辛い体験が後の創作に投影・反映されていく。文芸評論家・小松伸六は水上を「地獄を見てきた」「人生の苦労人」と表現している。水上は戦時下の混乱期に生まれたばかりの幼児と生き別れ、34年ぶりに再会するという奇跡の体験もした。ようやく光を見たのが昭和34年、文壇に再デビューを果たし、書き下ろし推理小説『霧と影』が直木賞候補になってから。
 福井生まれの水上には北陸・山陰の暗く、重く、陰鬱な土着的な気質の作品が目につく。奥野健男は『「越後つついし親不知」の解説』で、「森鴎外、泉鏡花、徳田秋声、室生犀星、坂口安吾、堀田善衛など裏日本の文学に隠花植物のような妖しい美しさ、かなしさがこめられているようだ」と評した。特に水上作品には故郷の風土性が「原風景」や「原光景」として強く定着しているとその特色を分析している。
 『決潰』は屈辱的な劣等感を乗り越えて生きる自伝的物語。短篇『石山』は近江の石山へ小僧に出される悲話。あまりにも悲しく傷ましい小説『桑の子』。長篇『おきん』『棺』は寒村での暮らしの想い出。『湖の琴』は悲恋の果てに身投げして死んでしまう話。『雁の寺』に続く『越後つつ石親不知』は越後のおしんを主人公にした薄幸の人生である。
 『五番町夕霧楼』は、国宝・金閣寺が放火で全焼した事件を下地にしたフィクション。ヒロインの夕子は、京都・夕霧楼の20歳の娼妓で、幼なじみの正順は「どもり」の言語障害をかかえる青年僧。正順は人生の矛盾と絶望感から復讐の一念を募らせ「鳳閣寺」に火を放ち自殺する。鳳閣が炎上する前日、彼は「もうすんだ、安心してくれ」の伝言を夕子に遺していた。恋人の夕子も故郷にもどり睡眠薬自殺。著者は三島の『金閣寺』を意識しながら執筆したといわれている。
 『西陣の女』は、故郷を捨て、西陣織の技を極め失踪した刈田紋の彷徨を追跡。『櫻守』は桜の美に憧れ生涯見守り続けた庭師の生涯。『静原物語』『北国の女の物語』『案山子』など、水上は生涯にわたり多くの作品を残した。人の心を打つ講演など、人気作家としての条件を備えていた。
 創作の範囲は、自伝的な純文学から推理小説、さらに仏教的な歴史小説、伝記、評伝、戯曲、エッセー、童話などに及ぶ。諸分野の題材を精巧なテクニックで組み上げることで奥の深い作品が生まれた。余情的、情感いっぱいに織りなす文章に、柔らかくなめらかな京ことばや関西弁の語りをすべりこませる手法も心地よく、奥野は「水上節」と命名した。
 例えば、長篇『京の川』の人物と自然描写・川の点描のみごとな導入部。作者は、京都の花街の芸妓・静子を、「濁って」「都会風となった」鴨川の水に比して、「鞍馬山から流れる高野川」の岸で生まれ育った静子を、澄み透つた清明な高野川の流れに擬人化している。哀調を帯びたストーリーの運び、人間の美醜を陰影をもって写しとる。女の道と芸妓の道をけな気に生きるヒロインの姿勢に思わず共感してしまうのだ。

芸術性と社会性
 昭和36年、42歳で発刊した中編『雁の寺』は、水上の代表的な自伝的私小説である。堅実な筆致、芸術性の高い物語性を顕現させた。きめ細やかな人間の心理描写は文芸評論家・作家たちをうならせた。
 乞食の女が部落のお堂に捨てた赤子は「捨吉」とよばれ、「頭の鉢の大きな」「額が前へとび出ている、ひどい奥眼」で「畸形」の小坊主。禅寺「孤峯庵」慈海和尚の下で修行してきた彼は故郷でも寺でも無口で孤独であった。
 昭和8年の秋、和尚の長年の友・京都画壇で有名な南嶽が死ぬと、京に囲われていた里子が和尚の請いで形ばかりの妻の座におさまる。人々の好奇の眼に晒され愛されたことのない少年僧慈念は、得度式を終えても寒々とした孤独と屈辱の怨嗟をため込んでいた。あるきっかけで、辛く悲しい生い立ちの境遇があまりに似ていることを哀れんだ里子は慈念に身をゆだねてしまう。
 南嶽は10年ほど前、「本人が自慢しても、はばからないほど卓れた」襖絵を寺院内に描いていた。それは無数に羽ばたく雁の「墨一色」の絵で、「生きているかにみえ」る見事な出来栄えで小説『雁の寺』の由来になった。
 里子が来てから1年が過ぎ、和尚と里子の情交をのぞき見してしまった慈念は、二人に屈折した硬い心で接するようになる。11月になって、慈海住職が行方不明。物語は衝撃的な終わりを迎える。なんの夢ももたず「孤独な心のもって行き場所のない慈念」は、麻縄で虐待をくりかえす住職を殺害してしまうのだ。里子は「ひょっとしたら、慈念が恐ろしいことをしたのではないか、と思った。…里子の心に芽生えた疑惑はとうてい口にだせないものであった」。全編がしっとりとした美しい文章でつづられているだけに、あまりに暗く救いがたい結末の空漠感が惨めでやるせない。
 人生の辛さや貧乏を肉体に刻みこんで生きた著者は、現実世界と虚構の領域をまたいで創作した。この傾向は人間表現における愛憎の激しさに顕れ、貧しい人々、病者、身寄りのない者、弱者、特に女性への目線はかぎりなく温かい。
 『五番町夕霧楼』の夕子、『越前竹人形』の玉枝、吉川英治文学賞をいとめた『北国の女の物語』の沖子など。さらに加えると水上家には障害児がいて、『車いすの歌』は婦人公論読者賞を得ている。その同情心はひとかどではなく、昭和38年に中央公論に「拝啓池田総理大臣殿」の書簡を公表し福祉の問題点を提言すると社会的に大きな反響を呼んだ。
 反対に不正義や凶悪な犯罪者や悪事には容赦ない裁断を下した。己に対する贖罪意識も強く、66歳の『瀋陽の月』は、若き時代中国にわたり、苦力を奴隷のように使役した月日を想いめぐらしたノスタルジックな鎮魂歌。創作の意図として人生を「振り返ることで自分を浄化する」という意味を込めたという。
 興味深いのは谷崎潤一郎賞の『一休』、毎日芸術賞の『良寛』『沢庵』『虚竹の笛』や親鸞、白隠禅師などの仏教的伝記を創作したり、『「般若心経」を読む』『説経節を読む』など幼いころに接した、大衆相手の語り物を現代人に手ほどきする作品や仏教的評論を書いたこと。禅寺で水上少年が厳しい修行の日々を送った宗教的心性が、そのまま作品につながっている。
 昭和30年代に推理小説を連続して発刊した背景には、戦後まもない社会で多発した不可解な事件や騒動があった。『霧と影』では、東京の衣料会社の社長が詐欺に遭って失踪し、小学校の教師が断能登の崖から転落死する。この二つの事件から闇に包まれた人間模様が解明される。
 水俣病と殺人事件をつないだ『海の牙』は、日本探偵作家クラブ賞を受賞。『海の牙』と主婦と生活社の争議の『耳』の作品は二度目の直木賞候補となった。さらに、『若狭湾の惨劇』『爪』などのヒット作を発表し、松本清張とともに社会派ミステリーの新ジャンルを開いていく。
 昭和38年の長篇『飢餓海峡』は、清張の『ゼロの焦点』を思い起こすような筋書。台風で青函連絡船が沈没し、北海道の漁村では質屋の放火で4人が惨殺され、一連の事件を契機にミステリー世界が開幕する。二人の刑事は執念で次第に真犯人に迫り、欲望を隠蔽した犯人の壮絶な人生が重厚なタッチでえぐりだされる圧巻のサスペンス。時代を映し出す力量は秀逸で、男女の個性的な書き分け方にもリアリティーがあり、水上の小説は映画やテレビドラマ、演劇と、どれも好評を博した。

生きる意味を問い続け
 谷崎が絶賛した昭和38年の『越前竹人形』は、越前武生の虚構の部落・雪深い竹神を舞台に、「目籠」「笊」「鳥籠」など竹細工を生業とする喜助と娼妓の玉枝のプラトニックな愛の物語。ヒロインの玉枝は京都から移った北陸の遊郭で身を引き、年下の喜助の愛の力で結婚にたどりつく。が、その結婚は憂愁な影を帯びていた。玉枝は喜助が幼い時に死んだ母親の面影によく似ていた。美しい玉枝に心惹かれる喜助は母性愛に焦がれるあまり妻という情愛が湧いてこない。二人は指一本触れあうことのない夫婦となった。
 まもなく喜助は細工物の傍ら竹人形の制作にとりかかる。喜助は天才肌の職人で、「竹の精」のような玉枝を手本に精魂こめて制作した竹人形は、いつしか世間に伝わり京都の大店に卸されるようになる。しかし、玉枝は悪い男に騙され身ごもってしまう。内密に子を堕ろすが、今度は結核の症状が進み喀血。余情豊かに進んできたストーリーは息詰まるような哀しい終焉を迎える。「口から深紅の血を吹き」だし「朱に染まった玉枝の顔」は血の気のない「枯れ木のよう」であった。「死んだらあかん、死んだらあかん…玉枝は、かすかな微笑を頬にうかべ、喜助の手に指先をかすかにふれさせたまま、こときれた」。
 興味深いのは、水上と同世代の陳舜臣の小説『青玉獅子香炉』との共通性。水上は長篇『西陣の女』のように日本的風土性の濃い作品を書き、陳は中国歴史の事績にそった創作で、人間関係の設定や主人公が伝統工芸の職人であることなど両作はかなり類似している。
 61歳での長篇『宇野浩二伝』は雑誌「海」の連載後、菊池寛賞を受賞。宇野浩二は水上の文学上の恩師、『フライパンの歌』の序文を宇野が書いて以来の深いつながりがあった。当自伝は文学の鬼と自称した宇野の実像に迫った力作である。「人間そのものを純粋に表現している作家、無添加・無加工の作品を生み出している日本人文学者」と説いたのは既述の小松伸六。そのごとくに53歳の『わが六道の闇夜』では、生い立ちからの遍歴を赤裸々克明、自嘲的に回想している。
 水上は、人間として生きる業や意味を、人生の葛藤・喜び・怒り・悲しみなどを想いめぐらしながら、作品に昇華し問い続けた。日本芸術院会員、日中文化交流協会理事をはじめ直木賞選考委員を19年間、芥川賞選考委員を5年間務めて、85歳で逝去。昭和60年、「若州一滴文庫」が故郷・若狭のおおい町に開設。水上が主宰した若州人形座の拠点で、文学・美術・宗教の資料が展示されている。

(2024年4月10日付 810号)