女性皇族に見る福祉の伝統

2024年4月10日付 810号

 愛子さまは成年の記者会見で「災害ボランティアにも関心を持っている」と語られたが、災害被災者の救援や福祉は古くから女性皇族の活動の場でもある。昭憲皇太后の活躍は、国際社会に登場した明治の日本という国の在り方をも示す画期でもあった。

昭憲皇太后と赤十字
 明治45年(1912)、米国ワシントンで開催された第9回赤十字国際会議において、災害・疾病・貧困などに対する平時の赤十字活動への支援を目的に、昭憲皇太后が国際赤十字に下賜された10万円(現在の3億5千万円に相当)を元に昭憲皇太后基金が創設された。事業が実施されたのは大正10年(1921)からで、現在まで昭和19年を除く毎年、昭憲皇太后の命日である4月11日に、基金の利子が世界各国の赤十字社、赤新月社に配分され、世界各国・地域の災害や感染症に苦しむ人々の救済や福祉、防災や病気の予防などの活動に充てられてきた。基金はその後、皇室からの下賜金や日本政府、日本赤十字社の協力、明治神宮、明治神宮崇敬会などからの寄付金で増額されている。
 シンポでは、当時の日本赤十字社社長、国際赤十字・赤新月社連盟会長の近衞忠煇氏が「日本から世界へ 受け継がれる『思いやり』の国際貢献」と題し基調講演し、「神功皇后は新羅との戦で降伏した敵兵を殺さないよう命じ、光明皇后は孤児・貧困者の救済や傷病者を施療する悲田院と施薬院を設立し、後醍醐天皇は派遣した軍の戦闘法や捕虜の扱いなどをジュネーブ条約の500年も前に定めたように、日本の皇室には寛容と仁慈の精神が根付いていた」と語った。
 1877年の西南戦争の折に博愛社が設立され、86年に日本政府のジュネーブ条約加入に伴い、87年に日本赤十字社と改称した。翌88年に福島県の磐梯山が大爆発すると、皇后陛下は赤十字社に医師の派遣を内示され、これが赤十字社による災害救助の始まりとなる。日赤は1890年から看護婦の養成を始め、戦時や平時の救恤活動に尽力し、第二次大戦中には千人以上の殉職者を出した。皇后陛下自身も日清・日露戦争時には傷病兵を見舞われ、捕虜にまで義手、義足、義眼を下賜された。
 また、皇后陛下が海外の赤十字活動や王室、女性の慈善活動に関心を寄せられたことが、昭憲皇太后基金の設立につながった。それは、第一次大戦後に設立された国際連盟により、赤十字の平時の役割が定められる前のことである。
 基金の配分は1921年から始まり、大戦で大量の難民が発生し、疫病が流行していたヨーロッパの赤十字各社が対象となり、半分は結核対策だった。23年には日本で関東大震災が起こり、大規模な国際救援活動の先例となる。その支援規模は、2011年の東日本大震災まで破られなかった。
 戦後、基金の配分は途上国の支援に重点が移り、戦争に伴う難民や孤児、未亡人の救援にも使われている。赤十字国際委員会も配分の対象で、昨年、大きな台風に見舞われたフィリピンでは、国際委員会が中心になって救援活動を行った。
 赤十字の活動が戦時から平時に変わる大きな流れをつくった同基金の先駆的役割は世界に誇っていい。日本の皇后陛下の発意によって、政府開発援助(ODA)という概念が生まれる半世紀も前に、基金が設立された事実に驚かされる。
 赤十字をはじめ被災者支援や福祉の現場で活躍される女性皇族の姿は、国民一人ひとりに印象的な記憶として残り、それぞれが危機にあっても平常心を取り戻し、周りの人々のために尽くしながら自身も復興していく、人として生きる道しるべとなった。それが日本という国民国家の形成に大きな力になったことは確かであろう。

家族のモデルにも
 皇族における女性と男性の在り方は、国民にとって家族の一つのモデルになっていよう。国民と共に前に向かって力強く進むとともに、取り残される人がいないよう細かく気配りする。その両輪があって、子供らは健やかに育ち、次の家族を創造していく。その集積が国の歴史になっている。
 天皇皇后両陛下の慰問を受けた被災者の多くが、ねぎらいの言葉や姿に接して生きる力を回復させている。そんな国に生まれ、共に歩めることを感謝し、周りの人と地域のために働きたいと思う。

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