諏訪神社で厄除初午大祭

連載・神戸歴史散歩(1)
生田神社名誉宮司 加藤 隆久

諏訪神社

古式湯立神事
 節分後最初の午(うま)の日に当たる2月12日、神戸市中央区の六甲山系山麓の諏訪山の金星台の上にある諏訪神社で、商売繁盛と家内安全を祈願する厄除初午大祭があり、釜で沸かした湯のしぶきを浴びて厄をはらう伝統行事「古式湯立(ゆだて)神事」が執り行われた。
 午後2時から神事が始まり、安部初男宮司が氏子らの名前読み込んだ祝詞を奏上し、巫女が神楽を奉奏して、氏子総代ら参列者が玉串を神前に捧げて拝礼した。氏子たちの名前をすべて入れた祝詞に、氏子を大切にする気持ちが感じられた。
 次いで、湯立神事の用意がなされた稲荷社の前でも神事が行われ、古式湯立神事が始められた。神楽の曲が流れる中、白装束姿にたすきをかけた巫女が、古式ゆかしく稲荷社の前に据えられた二つの釜に供え物の塩、米、酒、水を入れて湯を清めた。
 そして、意を決したかのように、ササの束を釜の湯に漬けて、体を大きくそらして勢いよくササの束を振り上げると、湯が弧を描きながらあたりに飛び散る。飛散するうちに温度が下がり、肌に触れても熱いことはない。ほどよく冷めた湯が降り注ぎ、参拝者らはそれぞれ身を清められながら、今年一年の健康や開運厄よけを祈願していた。

湯立神事

 湯立神事は湯立神楽とも呼ばれる日本の伝統行事で、大きな釜にお湯を沸かし、ササを熱湯に浸してそれを身にかけ、その年の吉凶を占ったり、無病息災や五穀豊穣を願うもの。神社が神威を授け与え、人々がそれをもらい受ける、古代からの儀式なのだろう。
 氏子総代の瀧賢太郎さんは、神事の後の挨拶で「古代からの日本の伝統が神事によって継続されている。古くから天皇陛下の御代が続いているような国は世界にない。伝統を守ることが国民の原理でもあり、政治家の人たちには国民の伝統と国益をしっかり守ってほしい。それが地域社会、ひいては国の安寧を保つことになるから、神事を大切に守っていきたい」と語った。人々の祈り、願いの中心に神社がある。
 拝殿の前で瀧さんに話を聞くと、「諏訪神社は高台にあるので、風が吹き上がってくるのでさわやかでしょう」と。境内からは、神戸の高層ビルが林立する街並みと、遠く淡路島を望む神戸湾が見渡せ、広大な気分になる。下の諏訪山公園では盆踊りも行われ、庶民の楽しみの場ともなっているという。氏子が少年野球の指導をしていることもあって、子供たちも多く参加し、湯立神事の湯を浴びながら楽しんでいた。
 諏訪神社の祭神は建御名方大神(たけみなかたのおおかみ)と比売神(ひめがみ)。社伝によると、仁徳天皇の皇后である八田皇后(やたのひめみこ)の離宮鎮護神として鎮斎されたという。 生田神社と長田神社の中間に位置することから、古くは中宮と称されていた。1182年頃の治承・寿永の乱(源平合戦)の折、源義経が武運を祈ったという言い伝えがある。

赤い字の中国人の献灯

中国人がお参り
 同社が神戸の近代化を反映しているのは、明治期に長崎から移住してきた中国人に崇拝されるようになったこと。安部宮司によると、「中国人が親しみを感じたのは、長崎の諏訪神社と同じように山の上にあり、長い石段を登ったところから海が見えるからでしょう。海の向こうにある祖国の中国に思いを馳せながらお参りしていたのではないかと思います。今は三世、四世の人たちになっていますが、多くの中国の方々が赤字の名前を記した提灯を社殿に掲げています」と。
 拝殿には、中国の人たちのために、膝をついてお参りする跪拝台が用意されていた。有名な「長崎くんち」は長崎の鎮西大社・諏訪神社の秋季大祭で、華僑の龍踊(じゃおどり)が人気の一つである。
 諏訪神社は山の神で武運長久の神でもあり、狩猟採取の縄文時代からの日本の伝統が感じられる。安部宮司は「山に登ってくるので健康にいいのも、諏訪神社が愛される一つです」と付け加えた。
 両親が台湾から戦前に神戸に移住し、今の中央区で生まれた直木賞作家の陳舜臣は『神戸ものがたり』(神戸新聞総合出版センター)で諏訪山神社(諏訪神社の別称)について次のように書いている。
 「境内に煉瓦づくりの焼却炉のようなものがみえる。ゴミ焼場とまちがえてはいけない。『紙銭(しせん)』を焼くための炉なのだ。
 紙銭というのは、むかし中国で副葬品にほんとうの金銭を使ったのを、紙にかえたものである。約十センチ四方の紙で、中央に申訳ばかりの金箔や銀箔が刷りこんであり、祖先をまつるときなどにそれを焼く。冥土でもゼニが要るとみえて、そうして死者に金銭を贈るわけだ。日本の『今昔物語』にも紙銭の話はでてくるが、この風習は、日本には伝わらなかった。だから、もちろんこれは中国の風習である。

中国人の跪拝の座具

 神殿のまえに、すこし傾斜した奇妙な台が置いてある。腰掛けではない。跪拝(きはい)するとき、両膝をそこにつくための台なのだ。中国では、神にたいしては『一跪三叩頭(こうとう)』の礼をおこなう。一回ひざまずき、三回頭をさげる。死者には『一跪四叩頭』、皇帝や天地には『三跪九叩頭』ときまっているが、いずれにしても、ひざまずかねばならない。
 中国ふうの跪拝の座具を置いている神社など、日本にはほかにはないだろう。」
 かつてのように、参拝者の7~8割が中国人ということはなくなったが、拝殿に掲げられた提灯には赤字で中国人の名や社名が記されていた。
 日本人の提灯の字は黒字なのですぐ分かる。神社には絵馬が奉納されるのが普通だが、ここでは献額がその代わりで、「有求必応」(求めれば必ずかなえられる)「恵我華僑」(華僑をお守りください)「佑我中日従心」(日中友好を祈願)などの額が並んでいた。
 陳舜臣は華僑が諏訪山神社を拝むのはコロニアル・スタイルだとして、同書に次のように書いている。
 「神戸は明治以後、国内の各地、そして国外の各地から人間が集まった。彼らは人情として、やはり出身地の風習や生活方式に従いたかったが、いろんな関係で、ふるさとそっくりというわけにはいかない。妥協によって、一種のコロニアル・スタイルをいろんな面で生んだであろう。

中国人が奉納した献額

 だが、国内版のコロニアル・スタイルはいつしか溶け合って目立たなくなり、国際版だけが残った。コロニアル・スタイルとは、植民者が本国ふうに住居を建てようと思っても、風土や建築材料の関係で、全く同じものはつくれない。やむを得ず、現地の同類のものとだきょうする。それがコロニアル・スタイルなのだ。
 諏訪山神社がその一例である。」
 つまり、一種の混淆文化がコロニアル・スタイルなのであろう。
 健康のため諏訪神社に足を運んだ外国人は中国人だけでない。ポルトガルの海軍士官として1889年に初来日し、1899年に日本にポルトガル領事館が開設されると初の在神戸副領事として赴任し、後に総領事になったヴェンセスラウ・デ・モラエスも、諏訪山一帯の散歩が朝の日課だったという。(新田次郎・藤原正彦著『孤愁』文春文庫)
 モラエスも諏訪山から海を眺め、異国にいるポルトガル人特有の「孤愁」(サウダーデ)を噛みしめながら、遠い祖国に思いを馳せたのであろう。

(2024年3月10日付 809号)