天照大神の荒御魂祀る三つの神社

連載・京都宗教散歩(28)
ジャーナリスト 竹谷文男

天照大神の荒御魂を祀る廣田神社の拝殿=兵庫県西宮市

 平安京の南の方位を守る城南宮(伏見区)は白河天皇の離宮だった地に鎮座し、その神紋は全国でも珍しい太陽、月、星を組み合わせた「三光の御神紋」である。色づけは、上に太陽が赤、左下に三日月が黄色、星は右下の小さめの円が濃紺で描かれ、現代アートにも通じる美しさと力強さを放っている。
 この神紋は、祭神である神功皇后が乗っていた船の軍旗に由来するという。神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、神紋は三つの光が昼夜の別なく遍く照らすごとく、祭神が放つ方位除けの神徳を現しているという。
 城南宮の位置は、京都を流れる桂川、琵琶湖から流れ出た宇治川、三重を水源とする木津川が集まって淀川となる合流点に近い。古来、この三川は巨大な巨椋(おぐら)池を形づくり、城南宮はその池のほとりにあった。巨椋池は豊臣秀吉などの埋め立てで現在では存在しないが、神功皇后の時代には淀川をさかのぼって巨椋池に入れば、山背(現・京都府)、大和、それに北陸や東国へと抜ける水陸路の要衝だった。
 仲哀天皇が九州の熊襲を攻めるため出陣した時、神がかりになった神功皇后は、新羅に向かうようにとの天照大神の神託を受けた。仲哀天皇はそれを信じなかったため急死し、皇后は仲哀天皇の亡骸を収めた棺を樹に懸け、その棺の前で軍議を開いた。現在の香椎宮(かしいぐう、福岡市東区)がその場所と伝わる。棺の前に集まった将兵は、天照大神の荒御魂をどれほど恐れただろうか。そして皇后は、後に応神天皇となる子種を腹中に宿したまま軍船に乗り込み、新羅に渡ったという(『日本書紀』)。

城南宮の「三光の神紋」=京都市伏見区

 新羅から帰った皇后が瀬戸内から大和に向かうとき、武庫川の沖あたりで船が進まなくなったため神意をうかがうと、天照大神は「我が『荒御魂』を皇后に近づけるべきでなく、広田に坐さしめよ」との神託を下した。そこで、山背国の豪族の娘・葉山姫を斎主に荒御魂を祀ったのが、現在の廣田神社(兵庫県西宮市)の起こり。廣田神社は、神託を受けた神功皇后が天照大神の荒御魂を祀ることで始まった。
 天照大神の荒御魂を祀った有名な神社は、他に伊勢神宮と熱田神宮がある。両神宮は、第12代景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)と深い関係があり、日本武尊の皇子の一人が仲哀天皇で、仲哀天皇と神功皇后の皇子の一人が後の応神天皇である。
 日本武尊は若くして知勇に秀でていたため、景行天皇から西の各地を平定するために遣わされた。さらに、東国に遣わされる時、叔母である伊勢神宮の斎王倭姫命(やまとひめのみこと)に会いに行き、辛い旅立ちを嘆いた(『古事記』)。倭姫命は尊を慰めて草薙剣を与え、油断を戒めた(『日本書紀』)。日本武尊は相模地方で火攻めにあった折、草薙剣で草を薙ぎ、向かい火を焚いて難を逃れた。そして東国から尾張に戻り、副将だった建稲種命(たけいなだねのみこと)の妹・宮簀媛命(みやずひめのみこと)と結ばれた。
 しかし尊は、休む間もなく伊吹山の「悪しき神」を従わせるため、草薙剣を宮簀媛命に預けたまま出発した。伊吹山で大きな猪に化身した伊吹山の神と出会い、神とは知らずに嘲弄したため怒りを買い、氷雨にうたれて重傷を負う。鈴鹿の山を超えて大和に帰る途上、尊は「やまとは くにのまほろば」と大和を慕う歌を残して息を引き取った。日本武尊は、天照大神の荒御魂を帯びた草薙剣により数々の困難を越えてきたのだが、不慮とも言える死を迎えたことを記紀は描いている。

天照大神の荒御魂を祀る荒祭宮=三重県伊勢市の伊勢神宮内宮

 日本武尊が愛した宮簀媛命は、草薙剣を尊その人であるかのように守り、後に熱田神宮がこの剣を御神体として祀ることになった。熱田神宮は日本武尊と草薙剣を介して伊勢神宮と親しい関係にある。
 伊勢神宮は、もともと大和朝廷の御殿に祀られていた天照大神を、第10代崇神天皇が「神威を恐れて共に住むことに不安を覚え、宮殿以外の地に祀るよう」にしたため、約90年の間、ふさわしい地を求めて移動し、現在の伊勢の地にたどり着いた(『日本書紀』)。
 伊勢神宮と熱田神宮は、天照大神の和魂(にぎみたま)とは別に荒御魂を別宮として祀っている。伊勢神宮内宮にある第一別宮「荒祭宮(あらまつりのみや)」と熱田神宮にある「一之御前神社(いちのみさきじんじゃ)」がそれである。
 神功皇后が、神がかりして神託を受けるほど天照大神の荒御魂に近かったのは、草薙剣を携えて東征した義父の日本武尊が、天照大神の荒御魂と近い間柄にあったためではないかと感じる。


(2024年3月10日付 809号)