『回廊にて』『背教者ユリアヌス』『西行花伝』辻邦生(1925~99)

連載・文学でたどる日本の近現代(45)
在米文芸評論家 伊藤武司

辻邦生

『回廊にて』
 辻邦生は大正14年、東京市本郷で誕生。代々山梨県石和の医家で母方も医師の家系である。19歳で松本高等学校理科乙類(現・信州大学理学部)に入学し、寮雑誌や校友会新聞に投稿。自宅を空襲で焼失した北杜夫が入学のため辻の寮を訪れ生涯の知己となった。東大仏文科に入学。27歳で卒業後、大学院へ進み、同じ院生で中世美術史の後藤佐保子と結婚する。
 37歳でのデビュー作『回廊にて』は近代文学賞を受賞、昭和43年の歴史小説『安土往還記』は芸術選奨新人賞を獲得した。昭和45年の短編集『北の岬』は映画化され、翌年の歴史小説『天草の雅歌』もテレビ放映された。『嵯峨野明月記』は本阿弥光悦、宗達、素庵らを描き、『背教者ユリアヌス』は毎日芸術賞を得る。昭和52年の歴史小説『春の戴冠』は、フィレンツェを舞台にサンドロ・ボッティチエルリらルネサンスの繁栄と凋落を古典語教師フェデリゴが追想している。さらに『西行花伝』は谷崎潤一郎賞を受賞した。
 名作『回廊にて』の序詞は、ドイツから亡命しヨーロッパを放浪したユダヤ人親子の娘マーシャの、幼少からの想い出をつづった母親の手記。マーシャの日記の引き写しが小説全体の四分の一以上を占める創作である。日記は夢の描写が多く、「夢のなかの夢から」目覚めてもなお完全に覚めていないような断章や反省が続く。
 ヒロインの画家マリア・ヴシレウスカヤが薄幸の生涯を閉じたのは1950年の冬。25年前、日本人画学生として渡仏した「私」は、この亡命の母娘と面識があった。マーシャは「異例の才能」の持ち主であった。ところが、突然「絵を放棄するにいたった」のである。「私」には「流星のように、わずか数年足らずを描きつづけて燃え尽きるように消えた」「マーシャの映像」が謎として心に残った。
 修道院の図書室のキリストの受難図に見入るマーシャ。息苦しい寄宿生活では「貴族的な生活環境」をもつアンドレ・ドーヴェルニュという読書好きな女の子との友情が記されていた。ある事件でアンドレは退学させられるが、親友の住む城館で涙の再会を果たし数日を過ごした。「大広間の西に壁面をかざる四枚つづきのタピリス」が彼女の眼をとらえた。織物は農夫の「額に汗シテ働キ」「心カラ憩イ、ソノ甘美ナ安息」の様子から「無限ニツヅク循環運動ガアッテ、ソノ律動ノ波」に彼女は同化し、「和シテイル」のであった。そして、無数の美術品・装飾・置物で飾られた美術館のような城館を建てたドーヴェルニュ伯と古い回想録に熱中するアンドレの「歴史研究は自己証明」だとの持論がマーシャの「心にいきつづけ」る。
 「私」はヒロインの「内面の声」を聴きながら真相を探り、マーシャの失踪の謎と「決定的な絵画との訣別」は、アンドレの「突然の死」が要因だったことをつきとめる。
 人生の「黒い重い現実」に相対した寡作画家の素性は、「人間の空間」を諾としなければ無価値となってしまうのか、それとも本人が知覚した「自分固有ノ時間ヲモチ、自分デアルコトニ歓喜シ、自ラノ成熟ヘト永遠ニ上ガリツヅケテユク」路であり、「コレコソガ美デアリ、美ノ意味デアリ、美ノ本質」だというのであろうか。小説の扉に張り付いたヨブ記の一節「然ばわが望はいずくにかある、我が望み誰がこれを見る者あらん」が読者に突き付けられる。

『背教者ユリアヌス』
 複数の作品を同時並列に書き進めるのが辻のスタイル。大作『背教者ユリアヌス』の執筆を承諾したときはいくつもの腹案を思索中で、長篇『天草の雅歌』の連載と『嵯峨野明月記』の執筆に「難航し、毎日苦吟していた」。著者は『「背教者ユリアヌス」歴史紀行』には「能天気な見通しを立てて自分を励ましていた」と苦慮ぶりを告白している。
 長篇『夏の砦』は、パリ留学時代からの創作ノートを基に、昭和41年に刊行。「一介のエンジニアにすぎぬ」「私」は、ヒロインの支倉冬子がタピリスの織物工芸家をめざして北欧の町を訪れた後、北海の海へ友達とヨットで出航し、嵐の中舟もろとも消えてしまったのを知る。現地では「一種のスキャンダル」として騒がれたこの失踪と死の真相をつきとめようと思い立つ。
 小説の放つ強烈なインパクトは、タイトルの真夏の陽の射しこむ夏と、寒々としたヒロイン冬子との対比、また冬子の複雑な性向を、自尊心、我儘、利己心、猜疑、好奇心、支配欲で描く。絶望の淵に追い込まれたヒロインが、北欧の自然の中で生きる素朴な人たちの生の営みと接しながら「生の回復」を成就するまでをたどる。主人公が冬子から受け取った手紙が終章。美や人生について思いめぐらす冬子の思索は、そのまま辻の芸術論・人生観として読みごたえ十分である。
 『安土往還記』は、イエズス会パードレと共に来日した一人のジェノヴァ船員を語り手とし、天下覇権をめざす信長や戦国大名たちを活写。『嵯峨野明月記』では、三人の歴史人物を「声」とし、過ぎし日の事どもを戯曲的独白形式で顧みる。『春の戴冠』『西行花伝』も同様のテクニックによる作品。辻文学の特徴は群を抜く序章の組み立て方にある。真摯に人生を省察し人間の尊厳や高貴さを深くほりさげたい読者にとって、きっと至福の時間となるだろう。
 佐保子夫人の回想『辻邦生のために』では、繊細な性質で好奇心の強い、生真面目にひたすら書き続ける執念の夫の姿を静かに見守る様子が印象に残る。
 作品に魂をふきこむ努力が『背教者ユリアヌス』の構想にうかがえる。「その最後の情景は、小説を書きはじめる前から見えていた。…『漠としたユリアヌス』という骨組みの段階で、胸に描かれていたのかどうか、今となっては、はっきりしない。…ともあれ、私は、この『空白の枠』を一種の小説的な塊として摑んでいた」と『歴史紀行』にある。また、「誰かが耳もとで囁く声を、ただ夢中になって筆記しているような、創作衝動の昂揚状態を味わった。私は書くべきこと、書かねばならぬこと、書きたいことに、満たされているような気がした」は回想文『ユリアヌスの廃墟から』。いわば「作品に内在する素朴な生命力を、いかにして十分に開花させ」、創作的衝動をつかむかが、著者にとっての焦点なのである。
 『背教者ユリアヌス』は、歴史の流れに抗しローマ帝国の栄光を夢見て悲劇の死を遂げた哲人皇帝ユリアヌスが主人公。ローマ社会を絵巻物のように繰り広げる壮大なロマンと完成度の高い文体形相が魅力的で、圧巻のスケールである。
 辻はフランス留学時代ヨーロッパ各地の修道院、城壁などをめぐり古代ギリシャやローマ文化・文明への憧憬をふくらませた。一稿を書き終えると、取材旅行に出発。円形劇場・浴場の遺跡、彫刻群、ローマ街道の遺構などを渉猟。無数の関係資料を読みこみ、己の目にしっかりと写し取った陰画を創作にはめこんだ。
 序章から壮観さを感じる。「濃い霧は海から匍いあがっていた」が、霧が消え去ると、「突然、…白い波の砕けている海岸と、海岸にそった長い城壁と、城壁にかこまれた壮大なコンスタンティノポリスの宮殿の屋根の連なりが、一挙に、息をのむような鮮やかさで現われてきた」と見事な表現である。皇帝コンスタンティヌスの弟ユリウスの妻バシリナが産んだ子がユリアヌス。その変転の運命は、バシリナが見知らぬ老婆から「太陽をうむ」女だと告げられた予言と、吉兆とされる「英雄アキレス」の夢の二つの縁で始まる。
 時代は古代から中世へのギリシャ古来の神々を拝する多神教と新興キリスト教の交差期。コンスタンティヌス大帝がキリスト教に帰依し、寛容令が布かれてから20年、貴族、長官、役人、商人、名もない民衆たちが「古い異教をすてて、キリスト教に改宗し、その数は一日一日と増えていた」。大帝国の都の華麗な宮廷生活、貴族たちとの交歓、若い聡明なユリアヌスも数々の人間関係を結びながら政治の中枢部とかかわりあう。
 政治と宗教の現実は決して純粋な世界に立っていたのではなかった。皇帝の権威は絶対であったが、壮麗な宮廷内での醜い政争・策謀、軍人同士の対立、司教エスセビウスの政治的介入による教界の腐敗、ギリシャの多神教文化やミトラ教の異教の教え、妖術など、聖と俗の巨大な闇の領域が肥大化していた。
 ユリアヌスが小さいころ、大帝の死で叛乱の風説が飛び交い、父や兄、親族が反逆の嫌疑で処刑される。幼い彼も離宮での幽閉生活が始まった。向学心の強いユリアヌスはホメロスやプラトン、修辞学などを学び、やがて誤解が解かれ副帝に抜擢される。
 第8章は、ガリア地方でのゲルマン部族との凄絶な戦闘が、雄渾なタッチで繰り広げられる。ユリアヌスは「異様な軍事的才能」を発揮し、ガリアローマ軍の全幅の信頼をえて新皇帝に推される。
 キリスト教の教義の司祭たちの争いや権力欲まるだしの偽善に対し、ユリアヌスは神々を祭祀する「ギリシャ古来の精神と秩序」の復興を進める。後世、キリスト教史で背教者と呼ばれる理由がこの部分にある。
 大敵ペルシャ帝国との砂漠の決戦で、ユリアヌスは投げやりで馬上から崩れ落ちる。終焉部の描写は「地上の美しい」「楽しい出来事…悲しい事件…青空が輝き、風が木々を鳴らし、雨が窓を打っていた」光景を実感し、「かすかに微笑」すると「ユリアヌスの息は絶えていた」。

 『西行花伝』
 『西行花伝』は晩年の大作。大佛次郎賞の候補になったが、辻が選考委員のため辞退。奥深い稟性ただよう流麗な名文が印象的で、西行の弟子・藤原秋実を主人公に史実とフィクションを交えた物語からは時代の情感が伝わってくる。
 秋実に筆を執らせた理由は、ひとえに「わが師西行はあまりに大きな存在だった」という哀惜の念であった。時の流れの無情に晒され鬱々と過ごしている21歳の秋実に、40代半ばの西行は「柔和な声」と「微笑を浮かべ」て言いきる。「いや、そんなものは棄てたほうがいいのです。…そう思い覚ってこの世を見てごらんなさい」と。この言葉を聞いて秋実は「私のなかで何かが始まった」と思う。
 小説は平安末から武士の社会が拓かれた乱世を舞台に、西行とかかわった人物を各帖で登場させ、「当代随一の歌びと」と賞賛された人柄や足跡を語らせる。
 西行は「北面の武士」として鳥羽院に仕えていたが、身分の高い待賢門院に「女院と母とを重ねて」恋慕、幾多の悩みの末、23歳で遁世する。それは「この世の苦しさを逃れるため」ではなく、事実はその逆で、現世と自然を愛し、歌と仏道に魂を打ち込むためであったのだ。
 「師の影の中にいる人間だった」秋実が「師の老いを感じた」のは、若い慈円や定家と出会ってから。それまでは、「花や月に抱いた溺れるような愛着は、昔は、歌には表われても、日常のなかでは強く押えられていた」。そして「歌が大きな円を閉じたような不思議な落着き」と「旅を終えた」悟りの気持ちを抱いた西行は、「草庵の一隅に設けた神棚の前で、生涯の歌をこれで詠み終えたという誓願を立てた」と秋実に語った。
 日と月と桜と風を愛した西行の有名な辞世の一首 「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」
 『若き日と文学と』『若き日の友情―辻邦生・北杜夫往復書簡集』は北杜夫との往復書簡と対談。20歳そこそこで出会い、終生の友となった友愛と信頼。北の書簡に「僕のリーべ(ドイツ語で恋人の意)」と返答する。北にはベストセラー随筆『どくとるマンボウ航海記』がある。水産庁の漁業調査船に乗り込んでアジア、アフリカ、ヨーロッパの航海をめざす長旅で、神経科の船医北の心の支えにフランス留学中の辻の手紙があったという。航海の途中、北はパリの辻を訪ねている。辻夫人の北への手紙もあり、家族ぐるみの交わりに好感がもてる。
 純文学の領域で人生の真実を追求し名作を生んだ辻邦生は、学習院、立教、東京農工大で教鞭を執った。文壇では小川国夫、加賀乙彦と共に「73年三羽ガラス」と呼ばれ、東大、フランス留学、大学講師も共通し、人気を底支えする根強い読者ファンがいる。平成8年、芸術院会員になり、73歳で逝去した。


(2024年3月10日付 809号)