児玉源太郎/日露戦争を勝利に導く

連載・愛国者の肖像(10)
ジャーナリスト 石井康博

 

児玉源太郎

 児玉源太郎は嘉永5年(1852)閏2月25日に周防国(現:山口県)徳山藩興譲館目付、児玉半九郎の長男として生まれた。父の半九郎は尊皇攘夷論を支持し、徳山藩主毛利元蕃(もとみつ)に藩の方針を尊皇攘夷にするよう3度上申するが保守派の勢力に阻まれ、逆に蟄居閉門を命じられ、憂悶の内に死去した。
 奇兵隊の高杉晋作らが保守派との戦いに勝利し、毛利宗家の長州藩が尊皇倒幕をスローガンに立ち上がると、徳山藩も倒幕に傾くようになる。児玉源太郎は晴れて児玉家再興、家督を相続し、名誉を回復した。その後、児玉は長州藩と行動を共にし、第2次長州征伐で幕府軍との戦いに参加し、長州軍の近代兵器の威力を実感する。
 薩長同盟が結ばれ、戊辰戦争が始まると、薩長連合軍は鳥羽伏見の戦いに勝利する。江戸城無血開城の後、奥羽越列藩同盟の諸藩も降伏、残すは榎本武揚が立てこもる箱館の五稜郭の攻略のみとなった。児玉は半隊司令士として徳山藩の兵士の指揮を執り、五稜郭の攻略に加わって戦い、その名が知られるようになった。
 明治2年(1869)6月に品川で凱旋した後、児玉は陸軍練習生となり、翌年に卒業すると、下士官に任ぜられ、同4年には中尉に昇進する。同7年に江藤新平らの佐賀の乱が起こると、大尉として従軍したが、銃弾で負傷し戦列を離れた。次いで、熊本鎮台の准参謀となり、同9年の神風連の乱で城を守り、鎮圧した。同10年の西南戦争時には熊本城に籠城し、西郷隆盛率いる薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を守り切った。
 西南戦争で戦功を立てた児玉は昇進を重ね、明治16年からは大佐として参謀本部に勤務し、陸軍が創設した陸軍大学校の初代校長となった。当時、陸軍はプロイセンから普墺戦争、普仏戦争で勝利した参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケの愛弟子クレメンス・メッケル参謀将校を招いていた。彼が教えていたのは訓令戦術(指揮官が自主的・主体的に任務を遂行する)や分散進撃・包囲・一斉攻撃を基本とする戦術、鉄道や電信を駆使する近代戦という当時としては画期的な内容だった。メッケルからの学びが、児玉を日清戦争、日露戦争への勝利に導く鍵となる。
 中将に昇進した児玉は、大山巌陸軍大臣の元で陸軍次官兼軍務局長となった。ここから大山との関係が始まり、大山は児玉に全幅の信頼を寄せるようになる。同27年(1894)日清戦争が勃発、緒戦で勝利した日本は、北洋艦隊を殲滅させると勝敗は決し、同年4月に下関条約が締結された。児玉は日清戦争での功績により男爵となる。
 下関条約により、日本は台湾を割譲されたが、台湾人の抵抗にあう。政府は台湾の問題を解決するため、明治31年(1898)児玉を第4代台湾総督に任命した。児玉は日清戦争の後に陸軍検疫部事務官長として勤務した後藤新平の行政手腕を高く評価し、民政局長(長官)として登用した。後藤は台湾人の習慣や制度を熟知したうえで、政策を実現しなければならないと進言。児玉はそれに同意し、実行に移した。抵抗を続ける勢力を懐柔し、寛大に処遇したのである。そして近代的な医療、農業などの先進技術を台湾に持ち込み発展させていく。今日の台湾が親日であるのも児玉の政策によるものが大きいだろう。そして、児玉はその能力の高さゆえ、台湾総督のまま伊藤博文と桂太郎内閣で陸軍大臣となり、その後内務大臣、そして文部大臣も兼任するようになった。
 明治36年(1903)になり、日本とロシアの間の緊張が高まる中、陸軍の参謀本部次長田村次長が死去し、後任として児玉に白羽の矢が立った。当時、内務大臣の児玉にとっては降格人事であったが、児玉は日本を危機から救うために、あっさりと引き受けた。
 同37年2月に日露戦争が勃発すると、制海権の獲得のため、3次にわたる旅順港閉塞作戦が行われ、旅順港の軍艦の出入りを遮断しようとしたが、失敗に終わる。日本陸軍は鴨緑江会戦で勝利し、遼陽と旅順を分断すべく、南山を攻略して占領。旅順攻撃は乃木希典大将率いる第3軍に任せられた。
 第3軍は8月に総攻撃(第1回)を行ったが、約1万5千名の死傷者を出し、失敗。9月、11月にも攻撃を仕掛けたが、おびただしい死者を出して失敗に終わった。その時、児玉は自身が第3軍に赴くことを決断する。そして乃木と共に第3軍の指揮を執り、攻撃を行う際に大砲を徹底して使う戦術に転換する。まずはロシア軍の砲台を重砲で砲撃して沈黙させ、28センチ臼砲で陣地を破壊し、兵士の前進を阻む砲台と陣地を味方に当たる危険を冒しても大砲で同時に攻撃して前進するのである。児玉の作戦が功を奏し、ついに203高地に歩兵が乗り込み占領し、旅順要塞も陥落した。
 その後、黒溝台の戦いにも勝利した日本軍は奉天に向かい、3月には奉天に陣取るロシア軍に、やや劣勢であったにもかかわらず、素早い分散攻撃を仕掛けた。乃木大将率いる第3軍が側面を攻撃し、秋山好古の騎兵部隊が北方を囲んだ。すると恐怖に襲われたクロパトキン将軍のロシア軍に逃亡する兵士が続出し、さらに後方に退却、勝敗は決した。
 児玉は同時にロシアの駐在武官の明石元二郎大佐を用いて、謀略工作を行った。フィンランドの反露分子や、ロシアの社会主義者らに資金を渡し、武器の購入を助け、デモ、争議、暴動を起こしたのである。連合艦隊が日本海海戦でバルチック艦隊に勝利した後、児玉はその後の交渉を見越して、日本に滞在していた予備兵力で樺太を占領した。その児玉の戦略が的中し、ロシア皇帝のニコライ2世が弱腰になり、戦争継続の余力が残っていない日本であったが、ルーズベルト米大統領の仲介でポーツマス条約を結び、日露戦争は終結した。
 明治39年に児玉は参謀総長になり、南満州鉄道委員長を兼任した。そして7月23日、児玉は薬王寺前の自宅で脳溢血に倒れ、この世を去った。享年55。
 児玉源太郎は私心を捨てて、日本を度重なる危機から救った愛国者であった。また、台湾政策によって台湾人からも信頼され、台湾の発展を助けた。そして対ロシア謀略工作は帝政ロシアだけではなく、ヨーロッパの運命を大きく変えた。児玉は日本という枠を超えた不世出の大物であったといえよう。
(2023年7月10日付 801号)