ソ連のビロビジャン・ユダヤ人自治州
連載・京都宗教散歩(15)
ジャーナリスト 竹谷文男
下鴨神社(京都市左京区、世界遺産)が鎮座する旧・下鴨村の村長の家に生まれ神道に親しんだ小辻節三は、長じてキリスト教の牧師となり、そして杉原千畝が発行したヴィザで日本に逃れたユダヤ人(杉原サバイバー)が無事国外に逃れられるよう助け、戦後はユダヤ教に改宗し、遺言によりエルサレムに葬られた。
ソ連領内のユダヤ人達は戦後も自由に出国できずに取り残されていたが小辻の死の翌1974年、米国で、ソ連に対して自国民の移動の自由を条件として「最恵国待遇への制限を緩和すること」を追加的に規定したジャクソンバニック修正条項(通商法)の成立で、結果的にソ連のユダヤ人の出国が可能となった。この法律にはユダヤ人についての何らの規定も書かれていないが、実質的にユダヤ人がソ連から出国することを可能にした(前回の連載で詳述)。これによってソ連邦崩壊後数年のうちに、ソ連内のユダヤ人の多くは脱出したといわれている。筆者はソ連邦崩壊2年後の1993年10月、ロシア極東アムール州のビロビジャン・ユダヤ人自治州を取材して、この事実を確かめた。
ビロビジャンにあるユダヤ図書館のガリーナ・アントノヴァ館長は「ソ連極東にビロビジャン・ユダヤ人自治州ができたのは1934年で、『約束の地』が生まれる以前でした」と切り出した。同館長は初対面の筆者に、最初の一言から『約束の地』という言葉を使ったがそれは、4000年も前に神がユダヤ人に与えると約束した地で、それが実現したのは1948年のイスラエル建国だった。ビロビジャンにユダヤ自治州が始まったのはイスラエル建国よりも前のことだと、アントノヴァ館長は誇らし気に静かに言い切った。
「最初ここに入植したのはわずか13人のユダヤ人でしたが、皆ユダヤ人の自治州を造る希望に燃えて働きました。その後、カナダ、米国、ロシアから、それにポーランドからナチスを逃れてユダヤ人達が集まってきました」。彼等は、ビロ川とビジャン川の合流点にある湿地や荒れ地を開墾し、水路をつけた。海外から織物・紡績工業の技術を持ったユダヤ人が入ってきて、その分野ではロシア極東で随一となったという。
ユダヤ図書館には、ヨーロッパなどで使われているイーディッシュ語の本が4000冊、ヘブライ語の本が1000冊、ロシア語に訳されたユダヤの本が5000冊ある。九州よりやや狭い自治州に当時、約20万人が住み、ユダヤ人はこの時には約4%しかいなかった。この時既にユダヤ人は激減しており、更に海外への移住が続いていた。
ビロビジャンではヘブライ語の日刊紙「ビロビジャンの星」が発行されていた。同紙のニコライ・アクモビッチ編集長によると、ロシア語版2万4千部、ヘブライ語版2千部、合わせて2万6千部だという。この数字からも、ユダヤ人口がソ連崩壊後に激減したことが分かる。ビロビジャンはアムール川(黒竜江)で中国と国境を接し、川を越えて現物を直接交換するいわゆる「国境貿易」が行われていた。国境貿易ではドルのようなハードカレンシーは不要である。アクモビッチ編集長によると貿易品目は「ビロビジャンから中国へは肥料、鉄、トラック、木材などで、中国からは日用品、穀物、食料など。その他、中国人がビロビジャンに来て野菜畑を耕したり建設業に従事したりしている」。
杉原ヴィザによってナチの手を逃れたユダヤ人達は、シベリア鉄道でウラジオストクへ運ばれる途中、ビロビジャンで数日の滞在が許された。その時の少年の一人が後に「米国金融先物市場の父」と言われた、米シカゴ・マーカンタイル取引所グループ名誉会長のレオ・メラメド氏だった。メラメド氏は自伝『エスケープ・トゥ・ザ・フューチャーズ』(ときわ総合サービス刊)に、当時のビロビジャンのユダヤ人の様子を描いている。
「ビロビジャン駅では、ユダヤ人が私たちを待っていた。ユダヤ人の移民が列車で通りかかることを耳にして、自分たちの親戚縁者がどうなっているのか、戦争でいったい何が起こっているのかを聞きに来た。人々は、何でも良いから起こっていることを話して欲しいと言った。ビロビジャンの人々は(ヨーロッパに)残してきた私の家族や友達と同じように、後に残されることになるという思いに駆られて悲しくなった」(一部略)。
少年だったレオは、ポーランドからリトアニア、ソ連、日本、米国という逃避行の中で、貨幣や物が交換されていく有り様を肌で感得したに違いない。作家の手嶋龍一氏はその著書で、(修羅場の様な日常をくぐり抜けなければならない類の人間にとって)「預金残高は彼の少年時代である。少年時代の経験の豊富さが、多様な困難、逆境、危機における対応力の源泉となる」と、箴言のような一文を書いている。これは背後から死に追いかけられるようにして、杉原ヴィザを手にロシアを横断して日本に逃れた少年の日のレオにこそ当てはまるだろう。
(2023年2月10日付 796号)