一燈園で恒例の「秋の集い」/京都・山科
「比叡山の写経行」学ぶ
一燈園恒例の秋の集いが10月19日、京都市山科区の一燈園(光泉林)で開催された。式典の後、比叡山延暦寺財務部長の水尾寂芳(じゃくほう)師が「比叡山のあ写経行」と題して講演、最澄、円仁に始まる仏道としての写経の歴史を学んだ。
午後は、映画「二宮金次郎」が上映された。勤勉・節約・分度・推譲の四つの徳を説く二宮尊徳の『報徳記』は北海道開拓時代の西田天香の枕頭の書の一つで、その思想形成に深く影響している。
挨拶に立った西田多戈止当番は「一燈園は明治37年に始まり、その後、山科に移り、昭和5年に祈りの中心である愛善無怨堂が作られた。礼壇には日本の礎をつくった太秦広隆寺の聖徳太子の霊灯と日本仏教の源である比叡山延暦寺根本中堂の不滅の法灯、伊勢神宮の分身とされる蹴上の日向大神宮の灯、天香さんが火打石で得た一燈園生活の祖霊を祀る家廟の灯を合わせて点じ、祈りの中心として灯し続け、私の年と同じ89年になる。天香さんは火は人の心を湧き立たせ、元気を呼び起こすと思っていたのではないか。比叡山とは深い関係があったことが想像される」と述べた。
『伝教大師最澄の寺を歩く』の共著者でもある水尾師は、比叡山の写経行について次のように講演した。
根本中堂には三つの灯篭があり、火の衰えに気づいたものが油を注ぎ足している。不滅の法灯は伝教大師最澄が22歳の時に堂を建て、薬師如来を祀り、「明らけく後の 仏の御世までも 光りつたへよ法の灯」の歌を詠み、灯したもの。最澄が願うように、この灯を皆さんの心にも灯し、その光で一隅を照らしていただきたい。灯にはそれを守ってきた無数の人たちの願いが積み重なっている。その法灯が分灯され、守っていく人たちがいるのはありがたい。
明治の初め、経済的に困窮していた比叡山に、毎月、油を担いで登ってきた人たちがいた。戦時中の物資の統制下でも、根本中堂には油が配給されていた。不滅の法灯はいろいろな人に守られてきている。
写経では般若心経の筆写が広く行われている。延暦寺では各堂に机といす、筆ペンなどを用意し、般若心経や「南無阿弥陀仏」などの短い法語も気軽に写経できるようにしている。奈良の薬師寺では写経の力で堂を復興、修復することができた。比叡山でも今、根本中堂の大改修を行っているので、結縁大写経を進めている。
写経の本義は、静かな空間で正座し、墨をすり、手本の漢字を写すこと。座椅子を使っても写経の尊さは変わらない。写経の最後に、初願成就や故人の菩提を弔うためなどと書く。写経は善行、功徳であり、それを願う人やことに振り向ける意味で、仏道修行と認められている。
写経の歴史をたどると、中国天台宗の開祖・智顗(538〜597)の師匠で、末法思想を中国人として初めて明言した南岳慧思(515〜577)がいる。比叡山では最澄の直弟子・慈覚大師円仁が如法写経を始めた。円仁の写経に思いを寄せ、写経を納めたのが藤原彰子(上東門院)で、摂関政治の頂点にいた藤原道長の娘で、一条天皇の中宮、後一条、後朱雀の二帝の母で、紫式部が女房として仕えていた。