教派分裂の長所と短所

連載・カイロで考えたイスラム(21)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

 イスラム教にも教派分裂があり、イスラム共同体による平和という理想とは裏腹に、血で血を洗う教派闘争が繰り広げられてきた。
 イスラム史上最初に分派活動をしたのはハーリジー派(ハワーリジュ派とも言われる)とされる。ハーリジー派は元々第4代カリフのアリーを支持していた勇猛果敢な数千人のグループだったが、自分こそカリフだと主張するウマイヤ家のムアーウィヤと戦った「スィッフィーンの戦い」の際、ムアーウィヤ側からの提案で調停に臨んだアリーが、彼に反対するグループに殺害されたのである。
 ハーリジー派は、「信仰は行為であり、イスラムの教えを守らず大罪を犯すものはイスラム教徒ではない。だから殺害しなければならない」という極端な解釈を行う。罪を犯した者を不信仰者と断定するのを「タクフィール」と言い、このタクフィール思想を継承したのが現代のイスラム過激派と見られ、国際テロ組織「アルカイダ」やイスラム過激派組織「イスラム国」(IS)がその典型である。
 大きくは、サウジアラビアのサウド王家が受け入れたワッハーブ派や、現在穏健派を装っているものの、実質は過激派である「ムスリム同胞団」(エジプトのイスマイリアで創設)、トルコのエルドアン大統領、などもタクフィール主義を継承しているとされる。
 2001年、アルカイダが実行した米国同時多発テロでは、実行犯19人中15人がサウジアラビア人だった。エジプトのムスリム同胞団は、ナセル元大統領暗殺未遂事件を引き起こし、同胞団の流れをくむイスラム団はサダト元大統領を暗殺している。ムスリム同胞団は、アラブ諸国のみならず欧米を含めた全世界に支部があり、「全世界イスラム化」「全国家にイスラム法の施行」を目指して活動している。パレスチナのガザ地区を武力支配しているイスラム過激派組織「ハマス」は、同胞団を母体にパレスチナで結成された団体で、歴史的にテロ活動を平然と行ってきた。
 教派が分裂することの長所を敢えて探せば、それほどの思考や思想の自由があったということだろう。がんじがらめに教理に縛られていたら、新たな教派は生まれようがないが、イスラム世界にもある程度の思考や思想の自由があったということになる。
 もっとも、長所は短所でもあり、思考や思想の自由という長所は、イスラム共同体の一体性を失わせ、共同体内部に対立闘争をもたらした。各教派がそれぞれの教えに固執し、自己の絶対性を主張することで、対立闘争はさらに激しく、規模が拡大した。キリスト教の30年戦争のように、同じ宗教で殺戮しあう関係へと暗転したのである。
 サウジアラビアを中心とするスンニ派と、イランを中心とするシーア派との戦いは、過去にイラン・イラク戦争を起こし、現在はイラクやイエメン、シリアを巡る両派の戦いへと拡大している。
 青柳かおる氏は『面白いほどよくわかるイスラーム』の中で、「近現代でも、反政府運動や過激な社会革命運動の中に、ハワーリジュ派のタクフィール思想は息づいている」と指摘、「ムスリムの為政者をタクフィールし、ムスリムではなく背教者、不信仰者であるとして、殺害を正当化するのである」と書いている。また、「サダト大統領を暗殺した集団もタクフィールを唱えていた」「イスラム法を施行していない為政者をタクフィールする現代のイスラム武装集団をハワーリジュ派ということもある」と指摘している。
 シーア派は、ムハンマドの死後、イスラム共同体(ウンマ)の指導者「イマーム」はアリーとその子孫であると主張する諸派の総称で、シーア派内にも分派があるが、一般にシーア派といえば最大宗派の十二イマーム派を指すことが多い。イランは1501年に成立したサファービー朝が十二イマーム派を国教としたので、イランのシーア派化が進んだ。1925年に世俗国家パーレビ朝が成立し、急激な近代化路線と親米路線を取ったが、その反動で1979年にイラン・イスラム革命が勃発し、十二イマーム派の法学者が統治するイラン・イスラム共和国が成立し、現在に至っている。
 コーランとハディースの成立過程にもイスラム教の長所と短所が見える。コーランは、ムハンマドが610年から632年までの22年間に断続的に神から受けた啓示を、ムハンマドや周りのイスラム教徒たちが記憶し、後にそれを文字化して成立したとされる。ムハンマドの存命中に書物としてまとめられたのではなく、最初の編纂は、初代カリフ、アブ・バクルの時に行われ、2回目の編纂は第3代カリフ、ウスマーンの時代になされた。ウスマーンの在位期間は644年から656年なので、ムハンマドの死後、最長24年の間にまとめられたことになる。聖書と比較すれば比較的かなり早くまとめられたので、信頼性が高い点は長所と言えよう。
 最大の短所は、ムハンマドの在世中に、彼自身のお墨付きを得たものではないことだ。本人以外の意図により本文の捨象がなされた可能性もある。また、イスラムの版図が拡大する中、各地の方言が混じり、コーランの読み方に混乱が生じたことも、再編纂せざるを得なくなった理由で、最終的にはクライシュ族の方言に従いまとめられたとされる。
 一方、ハディースはムハンマドの言行録で、編集作業が開始されたのは、同師の死後200から300年後とされる。9世紀の中頃、法学者シャーフィーイにより、イスラム法の法源として規定されたことから収集活動が活発化し、数十万の中から精選され、9世紀後半から10世紀にかけて、スンニ派の「6大伝承集」としてまとめられた。近年、ハディースの信憑性に対する疑問が投げかけられており、今後の研究が待たれるところだ。
 エジプトを含む中東地域とアフリカの英国国教会(聖公会)の統括責任者であるムニール師は、2016年1月の筆者とのインタビューの中で、現在、ハディースの信憑性がイスラム世界での大きな問題の一つになっている、と指摘した。シーア派はスンニ派と違うハディース集を持っており、ムハンマドの言行録のみならず、歴代のイマームのハディースも含んでいる。10世紀半ばから11世紀半ばにシーア派(十二イマーム派)の4大伝承集として編纂されたもので、この編集過程にも科学のメスが入れられる必要がありそうだ。