倉田百三の『出家とその弟子』

連載・近代仏教の人と歩み(6)
多田則明

「私の親鸞」が青年層に人気

倉田百三

 倉田百三が大正7年に岩波書店から出した戯曲『出家とその弟子』は、赤裸々な愛と罪の告白が当時の青年たちの共感を呼んでベストセラーとなり、各国語に翻訳された。フランス語版にはロマン・ロランが「現代のアジアにあって、宗教芸術作品のうちでもこれ以上に純粋なものを私は知らない」という序文を寄せ絶賛している。
 浄土真宗の開祖親鸞と父にそむく息子の善鸞、父子の和解をはかろうとしながら遊女と恋に落ちる弟子の唯円の物語で、人間の愛と罪、救いとは何かが描かれている。『歎異鈔』の戯曲化とも言え、倉田を一躍有名にした。
 倉田は明治24年、広島県庄原市の生まれで、家は豊かな呉服商。明治43年に上京して第一高等学校文科で哲学を学び、同期生に芥川龍之介がいる。ショーペンハウエルや西田幾多郎に引かれ、宗教に関心を持つようになり、『校友会雑誌』に「宗教は自己に対する要求である。自己を真に生かさんとする内部生命の努力である」と書いている。
 その後、倉田は妹艶子の同級生だった逸見久子と恋愛関係になり、学業も捨て盲進する。しかし、逸見家の反対で恋は破局を迎え、失望した倉田は、結核に罹ったこともあって一高を退学し、須磨に転地療養した。
 大正3年に庄原に帰った倉田は、郊外で独り暮らしを始め、教会に通いキリスト教を信仰するようになる。その後、結核で広島病院に入院した倉田は、教会の依頼で見舞いに来た神田晴子に慕われるが、性と罪の問題で悩んでいた彼は、それを拒絶する。
 そのころ倉田は、京都に無所有と奉仕の生活共同体「一燈園」を開いた西田天香(てんこう)のことを、友人で宗教思想家の綱島梁川(りょうせん)の文章から知る。
 西田が一燈園生活を始めたのは明治37年、トルストイの『わが宗教』を読み、「本当に生きようと思えば死ね」という言葉に感動したのがきっかけ。大正2年、京都・東山鹿ケ谷(ししがたに)の寄付された家で、同人(弟子)たちと暮らし始める。入園を希望して訪れた青年たちに、天香は「ここは悟りを得るところではない。自分を棄てに来るところである」と言い、「あなたは死ねますか」と問うたという。
 24歳の倉田が一燈園に来たのは大正4年12月で、翌5年1月に健康上の理由で園を離れ、近くの下宿で神田晴子と同棲し、一燈園に通っていた。同年6月には姉の危篤の報を受け帰郷したので、一燈園とのかかわりは約半年だったが、その後も天香との交流は続き、倉田は生涯「一燈園の同人」「天香の弟子」を自任していた。
 倉田自身が『出家とその弟子』の親鸞のモデルは天香だと語ったことから、一燈園は一躍有名になる。大正6年、天香への手紙で倉田は「私は親鸞をあなたとは全く違った性格に、非常に否定的な天才に描きました。何に対してもはっきりきめられない人にしました。南無阿弥陀仏の外には、具体的な定見の立たない人にしました」と書いている。天香と一燈園に触れたことが、彼の思索を深めたことは間違いない。
 後に倉田は「『出家とその弟子』の追憶」で、「この戯曲は私の青春時代の記念塔だ。……私の青春の悩みと憧憬と宗教的情操がいっぱいあの中に盛られている」と書いている。同書を読んだ天香は、日記に「材料としてまことによく書かれたり。世の珍重すも道理也」と記している。大正8年、『出家とその弟子』は一燈園の主催により京都公会堂で初演された。
 天香自身は男女の愛について厳格な人で、その生き方についていけないノブ夫人は実家に帰ってしまう。その後、天香を慕う女性が続出したことから、ノブと正式に離婚し、奥田勝(後の照月)と再婚。勝は天香が奉仕で出入りしていた木屋町のお茶屋の養女で、無所有の天香に養われなくてもいいと決心しての結婚だった。
 当時の一燈園は道を求める人たちに広く知られ、多くの宗教家や思想家、芸術家など後の時代に登場する青年たちが一燈園を訪れていた。宗教家では今岡信一良(日本自由宗教連盟・東京帰一教会会長)や高橋正雄(金光教学院長)、谷口雅春(生長の家創始者)、山田無文(花園大学学長)、学者では高田保馬(経済学)、佐古純一郎(文芸評論家、牧師)、詩人の尾崎放哉、山村暮鳥、陶芸家の河井寛次郎などで、大正デモクラシーの時代を感じる。
 西欧近代文明やキリスト教の影響を受けながら、日本の歴史文化に根差した個の確立を目指した青年たちの、一つの手がかりになったのが倉田の描く親鸞だったのだろう。つまり「私の親鸞」で、自己の内面を親鸞に投影しながら、実存的な思索を深めたのである。
 問題は、時代が戦時色を強めると、倉田は日本主義に傾倒していったことだ。日本主義団体の国民協会結成に携わり、機関紙の編集長となって、吉川英治らと東北地方の農村を巡り講演を行っている。中島岳志東京工業大学教授は『親鸞と日本主義』(新潮選書)で、昭和初期に親鸞思想を土台に国粋主義を語る人々が現れたことを指摘し、「なぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか」と問うている。
 中島教授は、国学の思想構造が浄土教の思想をもとに構築されているとし、「そのため、親鸞の思想を探究し、その思想構造を身につけた人間は、国体論へと接続することが容易になる。多くの親鸞主義者たちが、阿弥陀如来の『他力』を天皇の『大御心』に読み替えることで国体論を受容して行った」と述べている。もっとも、「親鸞思想が必然的に日本主義化する訳ではない」とも書き、誤解を防いでいる。
 いわば、倉田も時流に流されたわけであり、その大きな原因は、仏教そのものに歴史観が弱かったことにある。それは、キリスト教の善悪闘争史観と比べれば明白だろう。つまり、仏教は個々の救いは語っても、大きな物語は語れなかったのである。仏教が唯物史観をもつ共産主義に容易に取り込まれてしまったゆえんでもあろう。
 そのため、日本中心の日本主義に飲まれてしまう。倉田もその一人であった。普遍化すると、宗教における個と全体の問題であり、社会・政治思想としての仏教の課題である。
(2023年11月10日付 805号)