嵯峨大念仏狂言「百萬」と清凉寺

連載・京都宗教散歩(24)
ジャーナリスト 竹谷文男

 

嵯峨大念仏狂言の「百萬」=10月28日、清凉寺狂言堂

 清凉寺(京都市右京区)の嵯峨狂言堂で10月22日、国の重要無形民俗文化財である無言仮面劇「嵯峨大念仏狂言」の秋期公演が、嵯峨大念仏狂言保存会の主催で行われた。今回目玉となった演目は、清凉寺を舞台とする「百萬」で、清凉寺では17年ぶりの上演。北嵯峨の古刹・清凉寺にちなむ演目であるため、復活を望む多くの声に応えたもの。数百人の観客は野外からのぞむ嵯峨狂言堂の公演を楽しんだ。
 「百萬」は、生き別れた子と再会する母の物語。奈良に住んでいた母である百萬は夫と死別、その上、子の十萬と生き別れとなってしまう。我が子を探す母は、人々の集まる寺社で狂女の踊りを見せ、我が子を探しながら各地を流浪していた。
 子の十萬は、旅の僧に拾われて一緒に旅しながら母を探していた。そして、清凉寺の大念仏会で狂女が踊っているという噂を聞いた二人は見に来て、母子は再会する。子は懐にしのばせていた「しるし」を見せ、母はそれを見て子であると認める。巡り会えたのは阿弥陀様の慈悲によるものと感謝して、母子は故郷の奈良へと帰って行く。
 「百萬」は狂言のほか能でも演じられる。嵯峨大念仏狂言の演目には、能仕立てで派手な立ち回りの「カタモン」と、狂言仕立てで笑わせる要素が多い「ヤワラカモン」とがあり、百萬はカタモンに分類される。狂言は無言劇であって台詞が無いが、能で演じる「百万」の謡を見るとその台詞から、鎌倉期に新しい仏教が起きてきた時代の雰囲気が良く伝わってくる。

清凉寺本堂

 当時、人々は末法の世であると感じ、浄土往生を求める浄土思想が広がっていた。百萬は述懐する、「人は雨夜の月なれや、雲晴れねども西へ行く」──人は雨夜の月のように、心に迷いがあっても西方浄土を目指すものです。「乱れ心ながら、南無釈迦弥陀仏と信心を致すも、我が子に逢わんためなり」──乱れた心であるが南無釈迦阿弥陀仏と唱えて仏におすがりしているのも、我が子に会いたいがためなのです(謡の現代語訳は『翁と観阿弥』(角川学芸出版)を参照、以下も)。
 百萬は、清凉寺の釈迦像はもともと釈迦自身が母の法要のために造られた後、日本へ渡ってきたという伝えを示し、自分も子に再会することを願ってお釈迦様に舞いを奉納するのだと、舞い始める。「おん母摩耶夫人の、孝養のおためなれば、仏もおん母を、悲しみたまふ道ぞかし(略)、百萬が舞いを見たまへ」。
 そして、狂った女のような舞いを見て、子の十萬は母であることに気付く。母子共に再会できたのはこの寺に渡ってこられたお釈迦様の功徳であると喜ぶ──「(釈迦像の)尊容、やがて神力を現じて、天竺震旦(しだん)わが朝、三国に渡り、ありがたくも、この寺に現じたまへり」。そして仏法の力に感謝して、別れたもとの奈良へと帰っていく――「かのご本尊はもとよりも、衆生のための父なれば、母もろともにめぐり逢ふ、法の力ぞありがたき(略)、都に帰る嬉しさよ」。

「あみだ母みた」の石碑=清凉寺

 ここ清凉寺には救いを求めて、インド中国伝来の“生身(いくみ)の釈迦像”に礼拝する多くの庶民の熱気があった。この清凉寺に、子を求めて狂女となった母は、舞いを奉納しに来る。狂女の姿はみすぼらしかったが、笹を持って舞う舞いは見事だったので、多くの人が集まっていた。子はここで舞いを見て母だと気付き、それは阿弥陀様の慈悲のおかげであると喜ぶ。称名念仏が広まっていった頃の庶民の渇望と信仰的な熱気を伝える話である。
 融通念仏の祖と言われる円覚十万上人は、清凉寺などで大念仏会を通して弘めていた。通称円覚上人と呼ばれた導御(どうご)は、鎌倉時代の律宗の僧で、もともと大鳥広元の子として大和国(奈良県)に生まれた。3歳のときに父が死に、母は養育できず捨て子にした。その後、東大寺で養育され18歳で出家、文永5(1268)年ごろ法隆寺夢殿に参籠して融通念仏を弘めるようにとの聖徳太子の託宣を得て、京都で融通大念仏会を催していた。融通大念仏の結縁者が10万人に満ちるごとに供養を行ったことから導後は、円覚十万上人と呼ばれるようになった。十萬の名は、母を失った円覚十万上人の思いを投影している。
 清凉寺の嵯峨大念仏会は、導御の融通大念仏会が起源になるとされ、大念仏会で導御自身が母と再会した伝説を持つ。それは念仏を唱えながら一緒に唱える人々の中に母がいたのか、母に似た女性を見つけたのかは分からない。
 清凉寺の境内には、「あみだ 母みた 母みた」と彫られた石碑が立っている。
 清凉寺は浄土宗の寺院で山号は五台山、本尊は“三国伝来”の「生身(いくみ)の釈迦像」と言われる釈迦如来、開基は奝然(ちょうねん)、開山は弟子の盛算(じょうさん)。境内には、神仏習合の名残りとして愛宕権現社があり、同寺が愛宕山白雲寺(現・愛宕神社)の山下別当寺だったことを物語っている。
(2023年11月10日付 805号)