岩崎弥太郎/三菱財閥の創始者、経済発展に貢献

連載・愛国者の肖像(14)
ジャーナリスト 石井康博

岩崎弥太郎

 岩崎弥太郎は天保6年(1835)、土佐国安芸郡(現:高知県安芸市)井ノ口一ノ宮で地下(じげ)浪人(郷士の身分を失った土佐藩の下士)の岩崎弥次郎と美和の長男として生まれた。弥太郎は負けず嫌いで、気性が激しい性格だったが、幼少のころから母の勧めで勉学に打ち込んだ。9歳の時から小牧米山(めいざん)の下で学び、14歳の頃には藩主山内豊熈(とよてる)の前で漢詩を披露するなど才能が開花する。15歳になり、高知城下の岡本寧浦(ねいほ)の紅友舎に入塾し、学問を続けた。
 安政元年(1854)江戸詰めになった奥宮慥斎の従者として江戸に行き、安積艮斎の見山楼に入塾した。しかし翌年、父が酒席で喧嘩をして投獄されたので、帰国。その後、後藤象二郎に出会い、蟄居中の身であった吉田東洋の少林塾で学んだ。
 吉田東洋からは論語や孟子ではなく、治世、経済、兵学などの実学を教わり、時局についての見識をもつようになる。藩主の山内容堂が師の東洋を参政に抜擢すると弥太郎は東洋から正式に藩士として取り立てられ、安政6年(1859)に清朝の海外事情を把握するため長崎主張を命ぜられた。長崎に半年間滞在するが、そこでの遊興が過ぎて資金が尽き、国に無断で戻ってしまう。
 郷士株を買い戻した弥太郎は、郷士・高芝玄馬の娘、喜勢と結婚する。吉田東洋が土佐勤王党によって暗殺されると、弥太郎は下手人の探索のため大坂へ向かうが、届け出の不備で帰国を命ぜられる。弥太郎は暗殺の危険を避けるため、故郷に帰り、農事にいそしみ、下級役人として藩に仕えた。
 山内容堂が土佐勤王党の粛清に乗り出し、後藤象二郎を参政に据えた。容堂はかねてからの吉田東洋の考え「海運、交易の振興」を実現するため藩直営の商館「開成館」を開いた。しかし、商売に暗い武士が運営する開成館は行き詰まり、多くの負債を抱えるようになる。そこで後藤は弥太郎に開成館長崎商会への赴任を命じる。少林塾で共に学んだ弥太郎の能力を高く評価していた。
 慶応3年(1867)、弥太郎は福岡藤次(孝弟)と共に長崎へ向かう。その時、福岡は坂本龍馬と中岡慎太郎の脱藩赦免状を持っていた。長崎に赴任すると弥太郎はその才能をいかんなく発揮し、アメリカの貿易商人ウォルシュ兄弟、イギリスの武器商人トーマス・グラバー、ウィリアム・オールトなどと交際を深めた。
 一方、坂本龍馬の脱藩が赦免されたことを受け、龍馬の亀山社中は土佐藩所属の海運業として発足し、社名を「海援隊」とした。隊長は坂本龍馬、会計と経済支援は開成館長崎商会が担うことになり、弥太郎は長崎商会の主任に任命された。
 だが、これからの土佐藩の交易の重点を長崎でなく大坂に置くべきだと、弥太郎は後藤に進言する。大政奉還の後に坂本龍馬が同年11月に京都で暗殺されてしまうが、弥太郎は土佐藩の新留守番組となって上士の仲間入りをし、「開成館商法御用」として開成館の幹部となった。いよいよ幕府側と朝廷側の開戦が近づいている中、武器の調達は喫緊の課題であった。弥太郎は武器調達に奔走した。
 一連の戊辰戦争で新政府軍が勝利すると、土佐藩は長崎商会を閉鎖し、海援隊を解散。残務整理を終えた後、明治元年(1968)に弥太郎は開成館貨殖局大阪出張所(大阪商会)へ向かった。大坂では弥太郎は藩の借金を返すために、利益を上げようと、大坂の御用商人を介さずに直接取引をする方法をとる。また、弥太郎は他の藩の為に外国商人との取引の際に手助けをし、謝礼を蓄財して将来の投資のために蓄えた。
 明治政府が藩営事業を禁止したため、開成館大阪出張所も廃止され、私企業「九十九(つくも)商会」として再出発し、弥太郎は高知藩(旧土佐藩)権少参事に昇格した。同4年に廃藩置県の勅令が出されると、九十九商会は川田小一郎、中川亀之助、石川七財の三人の経営する「三川商会」として再出発するが、経営に行き詰まり、ほどなく三人は弥太郎に代表就任を要請する。
 弥太郎は明治6年(1873)会社を「三菱商会」と改称し、全権を握った。だが同時にその巨額の負債も抱えたのだった。以後川田と石川は腹心の部下として弥太郎を支えることになる。そして土佐藩主山内家の三つ柏紋を元にして三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。同7年には東京に本社を移し、「三菱蒸汽船会社」に名称を変更した。
 三菱は、同5年に政府の意向に渋沢榮一、三井などの財界が応えて設立された「日本国郵便蒸汽船会社」と競争することになる。この会社を相手にして競争するのは困難と思われたが、三菱は猛烈な営業攻勢をかけ、逆に荷扱い量は増えた。そこには、頭を下げる三菱の社員の商人意識、船足の速さ、船賃の安さが強みを見せていたからである。
 同7年2月に政府の実権を握っていた大久保利通が台湾出兵を決定すると、アメリカとイギリスは中立を守ると通告し、英米船の軍事輸送を拒否した。日本国郵便蒸汽船会社も政府の要請を断った。大久保利通と台湾蕃地事務局長官であった大隈重信は激怒し、弥太郎に軍事物資の輸送を頼んだ。弥太郎は国家が必要とあればと二つ返事で引き受け、以後、大隈は弥太郎を信頼するようになった。
 大隈は外国船を10隻購入し、全て三菱に運用を任せた。三菱は3600名の兵士を輸送し、さらに武器、弾薬、食料などを、船舶をフル回転させて輸送した。これにより、西郷従道率いる日本軍は、日本人に危害を加えていた台湾先住民族の征討に成功し、琉球の安定を守った。同8年には大久保利通の命により三菱が政府の育成会社になり、日本国郵便蒸汽船会社は解散、所有船舶は政府が買い上げた後、三菱に払い下げられ、名称を郵便汽船三菱会社に変更した。
 同9年2月、世界有数の海運会社である英国のペニンシュラー・アンド・オリエンタル・スチーム・ナビゲーション・カンパニー(PO)が上海・阪神・東京の航路を開通した。大阪・東京航路にまで進出し、大阪の問屋も抑え、乗客と貨物の争奪戦になった。三菱会社に未曾有の危機が訪れた。だが、弥太郎は闘志を奮い立たせ、立ち向かった。弥太郎は直接荷主にアプローチして、貨物の輸送を確保していき、競争に打ち勝った。
 明治10年(1877)2月に鹿児島で西郷隆盛が挙兵すると大久保利通は再び弥太郎に協力を要請する。弥太郎は全面的に支援することを約束した。後に田原坂の戦いに参加することになる兵士、軍馬、大砲、食料などを、三菱の船舶をフル回転させて続々と九州に輸送。政府軍の八代湾上陸にも危険を顧みずに輸送を行い、政府軍の勝利に貢献した。同年9月に西南戦争は終結するが。不利益を覚悟で支援した三菱は結果的には大きな利益を得、またこの功績により、弥太郎は勲四等に叙せられ、旭日小綬章を下賜された。
 その後、弥太郎は鉱山、金融などの事業にも乗りだし、多角経営を始めるが、そのいずれもが国家が必要とする事業であった。同13年には三菱為替店を開業、後には三菱財閥を形成していくことになる。
 がんを患っていた岩崎弥太郎は明治18年2月7日に生涯を閉じた。享年50。日本の成長期に西洋から産業を学び、発達させ、海外の企業と堂々と渡り合える会社を作り、また、日本の危機には国のために採算を度外視して支援した。明治初期のまだ国としての体裁が整ってなかった日本を岩崎弥太郎は一民間人として支えたのだった。その姿は今も語り継がれている。
(2023年11月10日付 805号)