宮島と嚴島神社の信仰

連載・神仏習合の日本宗教史(19)
宗教研究家 杉山正樹

嚴島神社の大鳥居

 「安芸の宮島」として親しまれる広島県廿日市市の嚴島神社は、宮城の松島、京都の天橋立と並ぶ「日本三景」の一つで、1996年には世界遺産に登録された。「神を斎(いつ)きまつる」神聖な宮島の陸地に建立するのを忌避するため、神社の社殿は海にせり出すように築かれ、大鳥居は岸から160メートルの海上に置かれる。弥山(みせん)を主峰とし霊気に満ちた宮島は、太古の時代より対岸の人々の崇敬の対象であった。山頂付近には、当時の磐座信仰を偲ばせる見事な巨石群が確認される。
 嚴島神社の創建について長門本『平家物語』と『嚴島縁起』は、以下のように記す。大和印南(いなみ)の里に「七色の声で鳴く黄金の鹿」が現れて評判となり、帝の耳に届いた。「その鹿を所望したい」。鹿を捕らえるように勅旨が出たが、怖気付いて誰もこれに応える者がいない。宮廷警護の役人であった佐伯鞍職(くらもと)が進んでこの役を買って出たが、生け捕りにできず射ち取って献上したので、公卿たちは「神使を射殺すのは不敬である」と非難した。帝は、鞍職の気持ちを察しながらも彼らの意見に抗しきれず、結局流刑となり安芸の濱に流れ着いた。

弥山山頂の巨岩群

 鞍職が無聊(ぶりょう)を慰める釣りをしていると、大船と見紛うほどの紅帆と瑠璃の壺に乗る十二単の貴女と出会う。遥か西方の国から故あって遠旅を続けてきたという。「この浦に神殿十七間、回廊十八間を造営し、我々を厳島大神として祀れ」。鞍職が、朝廷に奏上するための霊験を貴女に求めた。「汝が朝廷に奏上する時刻に、宮廷の艮(ごん=北東)の空に客星異光が顕れ公卿たちを驚かすであろう。その時、多くの烏が集まり宮廷の榊の枝を咥(くわ)えるであろう」。鞍職が都に上り託宣のいきさつを奏上すると、果たして奇瑞の通りとなった。鞍職は、罪を許され社殿が創建された。推古天皇元年(593)のことである。
 また、貴女の前日譚についてはこう記される。天竺に東城国という栄国あり。国王は、極楽浄土のような生活を送り后が千人いた。子宝に恵まれず神仏に子授けを祈り暮らしていたが、ようやく男子を授かり善哉王と名づけられた。善哉王は、西城国の姫・足引宮を見初め妻問いし、強引に自国へ連れ帰った。足引宮は絶世の美女であったので、父王の后妃たちの激しい嫉妬に遭い、夫の留守中に謀殺される。足引宮は死の直前に王子を産み落としたが、虎狼に養育され、王子はかろうじて成長する。後に王子と再会した善哉王は、聖の力で足引宮を蘇生させると后妃たちへの復讐を遂げる。3人で天竺を捨てて新天地を目指すが、立ち寄った国で善哉王が足引宮の妹に心を移した。足引宮は王の心変わりを恨み、空飛ぶ車に一人乗り旅に出て当地に辿り着いたという。

弥山霊火堂の消えずの霊火

 鞍職は、嚴島神社の初代神主となり以後、佐伯氏が代々神主を務める。大同元年(806)には、唐から帰朝した空海が宮島に立ち寄り、弥山を真言密教の修験道場とする。中腹に大聖院(だいしょういん)が開創され嚴島神社の別当寺となる。境内の霊火堂には、空海が護摩を焚いた「消えずの霊火」が、1200年の長きに渡り灯り続ける。
 平安時代末期、高野山大塔の落慶法要に際し、高僧から「嚴島神社を造営すれば、必ずや位階を極めるであろう」の示現を受けた平清盛は、一族を挙げて嚴島神社を篤く信奉する。
 宮島は、神職や僧侶でさえ渡島するのは祭祀時のみ、上陸する際も厳重な潔斎が必要な禁足地であった。島全体が神域とされ血・死の穢れを最も忌避した。死者は、即座に対岸の地に渡して葬る。このため島には墓地が一つもなく、遺族は、喪が明けるまで島に戻ることができなかった。妊婦は出産が近づくと対岸に渡り、そこで出産し、100日を過ごし穢れを祓うことでようやく帰島が赦された。

佐伯鞍職立像

 平家が壇ノ浦に滅んだ後も、幕府や大内毛利氏、また豊臣秀吉も嚴島神社を篤く庇護した。鎌倉時代末期になると宮島信仰の浸透に伴い、参集する参詣者が増え、神域の禁が破られる。神職や僧侶、役人や庶民が住み始め町が形成される。物資の流通が活発になり、瀬戸内海の要衝をなす港湾としての性格を加えた島は、江戸時代以降、急速に変貌を遂げて行く。
 令和4年12月18日、70年ぶりの大鳥居の大修理を終え、竣工清祓式が執り行われた。「汝知れりや。忘れりや。ある聖を以て言はせし事はいかに。悪行あらば、子孫までは叶ふまじきぞ」『平家物語(巻第三・大塔建立結びの段)』。創建から1400年、人の世の栄枯盛衰を見届けてきた嚴島神社。壮麗な海上社殿の奥に、その理(ことわり)が祈られているようである。
(2023年11月10日付 805号)