幕府の官学に儒学を採用

連載・宗教から家康を読む(7)
多田則明

藤原惺窩の生家跡に建つ銅像=兵庫県三木市

 長い戦国時代が終わると、武よりも統治の学として文が重要になってくる。中でも、宋の指導理念として盛んだった儒学の一つ朱子学が注目され、その第一人者として諸大名に招かれていたのが藤原惺窩(せいか)だった。
 慶長5年(1600)、学僧との論争のため家康に呼ばれた惺窩は、僧衣を脱ぎ捨て道服姿で現れ、禅僧から儒者に転じたことを天下に公表した。これが江戸儒学の劇的な始まりとなる。政治を中心に世俗倫理を説いたのが孔子由来の儒学なので、悟りを目指す仏教より実務に適していた。
 惺窩は、永禄4年(1561)、新古今集、新勅撰集を撰した藤原定家の12代孫として今の兵庫県三木市に生まれた。父は歌道で有名な冷泉家の冷泉為純で、惺窩は7歳で竜野景雲寺に入って僧になり、その後、上京して、京都の相国寺に入り、禅僧として朱子学を学ぶ。当時の寺は今の大学のような施設だった。
 天正6年(1578)、18歳の惺窩は一家破滅に直面する。所領細川の荘を、織田信長と気脈を通じていた三木城主の別所長治が毛利方に寝返り、急襲したのである。父と長兄が戦死し、歴代の蔵書も灰燼に帰した。
 天正11年(1583)、23歳の惺窩は学才で認められながら、権力におもねる禅宗に限界を感じるようになる。30歳の惺窩は、朝鮮国通信使として大徳寺を宿にしていた朝鮮儒学の最高峰、李退渓(りたいけい)門下三傑の金誠一と筆談している。明国より純度を高めた朝鮮儒学との出会いが、惺窩に儒学への新たな目覚めを促したのであろう。
 家康に江戸に招かれた惺窩は『貞観政要』などを講じた。幼年期から儒学を学んでいた家康に、「民は治むるものではなく、君主の方が仕えるもの」と教えたところ、家康は「仕えていては君主と呼べぬ」と反論。惺窩は「民あらずして君主は君主たりえませぬ」と応じた。結局、家康の「民は生かさぬよう殺さぬように為すべきであろう」との言葉に、(徳川殿とは相容れぬ……)と思った惺窩は、33歳で江戸を去り、その後、出講の要請には応じなかった。惺窩とはそういう人である。
 36歳で還俗した惺窩は、相国寺近くの二条通りに私塾を開き、それを助けたのが親友の播磨龍野城主・赤松広通(ひろみち)と京の豪商・角倉素庵(すみのくらそあん)だった。惺窩は朱子学を学ぼうと薩摩から明国へ船出したが、果たせずに終わる。
 運命的なのは、文禄・慶長の役で日本軍の捕虜となり、伏見で藤堂高虎の監視下にあった姜沆(カンハン)との出会い。姜沆は一流の儒学者で、惺窩は赤松の援助により、姜沆の下で四書五経の訓点を目指す。日本人が読める『四書五経倭訓』を完成させた惺窩は、朱子学の一派・京学派を作るが、赤松は讒言のため家康に自害に追い込まれる。惺窩が家康の出仕要請を拒否したのには、その恨みもあったのであろう。
 徳川幕府の下で慶長8年(1603)、朱印船貿易の再開に際し、惺窩は「利は義から生まれる」とする「舟中(しゅうちゅう)規約」を角倉素庵に提供しており、これは世界最初の明文化された経済倫理・企業倫理と言える。
 林羅山が惺窩の門人となったのは惺窩44歳、羅山22歳の時で、師弟でありながら学風を異にし、学問上の論争もするような関係であった。羅山の博学ぶりは惺窩を通して家康にも認めるところとなり、やがて羅山は要請に応じて家康に仕え、江戸幕府の官学の基礎を築くことになる。
 同じ儒学でも中国・朝鮮と日本との違いは、解釈の自由さにある。日本では武士の教養から庶民の徳目へと広がり、町人出身の石田梅岩の石門心学のような、仏教思想も取り込んだ一般道徳へと発展していく。山本七平はこれを日本資本主義の倫理と評価していた。
(2023年11月10日付 805号)