『日本婦道記』『青べか物語』『樅ノ木は残った』山本周五郎(1903~67)

連載・文学でたどる日本の近現代(43)
在米文芸評論家 伊藤武司

山本周五郎

不幸な生い立ち
 山本周五郎は明治36年、山梨県北都留郡初狩村(現・大月市初狩町)の物置小屋で生まれた。本名は清水三十六(さとむ)。父は博労や繭の仲買人、役所の書記や金融業をし、周五郎は3歳で祖母の実家・大月市へ移る。小学校時代から文才を見せたが、中学進学は父の反対のため断念した。
 大正5年、13歳で単身上京。山本周五郎商店に住み込み、夜間の商業学校・簿記学校で学びながら、独学で創作を始めた。8年間、店主夫婦から可愛がられ、作家になると「山本周五郎」を筆名に。関東大震災の時は、関西に移り雑誌編集に携わった。
 山本は23歳で出世作となる私小説『須磨寺付近』でデビュー。同年に戯曲も当選し、作家の道を歩み始めた。しかし順風とはいかず、出版社の執筆断りや失恋などを経験する。時代小説の依頼を受けたのが転機となり、その後は、普遍性のある人間の善意や信頼に基づく明るい小説を書くようになった。
 山本の小説は武家物が主流であるが、人間味豊かなストーリーは現代の感性でも素直に読める。作品を大別すると、歴史物の多い前半期と、庶民を対象にした「下町もの」などの後半期に分かれる。短編の達人で、歴史物の出発を飾る『日本婦道記』は31篇から成り、『橋ものがたり』の藤沢周平と比較・対照されてきた。
 講談社が『山本周五郎全集』を編集する際、山本の意向で外されそうになったのは、太平洋戦争末期米軍の空襲のさなかに執筆し、戦後に完結した辛苦の作品群である。火野葦平の『麦と兵隊』や石川達三の『生きている兵隊』などの戦争小説に対して、周五郎は江戸の下町を背景に、男たちと遜色なく生きる女や子供たちを対象に創作した。
 『松の花』は、質素につつましく生きた妻やすを褒める佐野藤右衛門の言葉、「この婦人たちを忘れては百千の烈女伝も意味がない」と、理想の女性像を解き明かしている。
 『不断草』は嫁と姑の美談。登野村三郎兵衛の妻菊枝は、眼を患っている姑に仕えていた。米澤藩は若き藩主・上杉治憲の藩政改革に重臣たちが反対し、ある日、無口の夫が性格が変わったようになって、優しかった姑も嫁にきつくあたるようになる。菊枝は離縁され実家に帰るが、眼の不自由な姑を忘れることができない。隠居の実父から勘当されながら、一人住まいの老姑の看護のため、名を変えて仕える。畑で育てた不断草を食膳に乗せたのは、姑の好物だったから。姑も菊乃が帰ってくるのを少しも疑っていなかった。その後、藩の改革は順調に進み、三郎兵衛は妻と姑の元へ無事帰還してくる。
 『おもかげ』は「美しい凛とした」母を喪った7歳の甥を、立派な武士に育てるため厳しく躾ける叔母・由利の話。藩大目付の父は多忙で、「弁之助のことは殆んど叔母ひとりの手に任されてあった」。由利は18、「明るく単純で、思い遺りのふかいやさしい気性」であったのに、母の死から「態度はにわかに変わりはじめた」。由利は心を鬼にして、犬をもこわがるひ弱な甥に接するが、弁之助は恨みをかかえるばかり。いつしか弁之助は16の立派な若侍に成長し、婚期を逸した由利は27になった。眼に涙を浮かべながら「由利は憎い叔母になった甲斐がございました」と語る姿に胸がしめつけられる。
 明治初期に生まれた室生犀星や山本周五郎らは、苦労をなめながら大成した文人である。「幸福な家庭は似かよっているが、不幸な家庭はどれもがそれぞれ不幸である」とは、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の一節。周五郎は3歳の時、山津波で住家が崩壊し、肉親4人が犠牲になって以来、出生の不遇に触れることを避け、生涯一度も故郷に立ち寄らなかった。長男は東京大空襲下で行方不明になり、同時期に20年連れ添った愛妻が36歳で病死している。

人生への勇気づけ
 大衆作家の山本は並はずれた人間愛と抒情的気風をもち、心優しい人情や明朗な絆が読者の心を惹きつける。娯楽をこえた要素が山本文学の底流にあるのだ。彼は「著者にとり時代物も現代物も純も大衆もミステリーもなく、要は、いい小説とわるい小説だけがあるのだ」と言い切る。『小説の芸術性』の評論では「或る主題について『書かずにいられないもの』があるとすれば、それはその作家にとって発見であり、…独自の価値がある筈である。…読者にもう一つの生活を体験したと感じさせるくらいに、現実性のある面白さがあれば上乗だと思う」と述べている。
 昭和36年の文芸講演『歴史と文学』では、事跡を語るのではなく「ある商家の丁稚が、どういう悲しい思いをしたか、…その悲しい思いの中から、彼がどういうことを、しようとしたかということを探究するのが文学の仕事だ」と主張し、「これだけは書かずにおれない、というテーマがない限りは、ぜったいに筆をとったことがない」と、著者独自の創作精神を説いている。
 さらに、物にそれほど執着心のなかった山本は、「たいせつなのは…人間と生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった、世の中のためにも少しは役だち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思う」という人生哲学を、『日本婦道記』の「風鈴」に引いている。辻邦生は「山本周五郎の作品が多くの読者を惹きつけている最大の理由は、まさしくこうした〈生への勇気づけ〉をそのなかに読みとれるからである」と共鳴している。
 山本文学の代表的な人気作『五辨の椿』『おさん』『さぶ』『虚空遍歴』『ながい坂』『おごそかな渇き』などは映画化、テレビ化され、舞台で上演された。黒澤明監督の『赤ひげ』で一躍有名になった『赤ひげ診療譚』は、文学的魅力のきわだつ初期の名作。江戸中期、小石川薬園に養生所が設置された時期に、貧困と病苦に虐げられている窮民の病者たちに施薬する医師の診察記。時代を超えた人間愛を説き、人間の生と死の問題を問いかけている。
 昭和35年発刊の『青べか物語』の導入部は「浦粕町は根戸川のもっとも下流にある漁師町で、貝と海苔と釣場とで知られていた」で始まる。主人公の「私」はふらりとローカル色の濃いこの地に住みこんだ無名の物書き。30年後に浦粕を再訪し、過日に起きた滞在の日々や人々との出会いを懐かしみ、一変してしまった現地の景観に驚き、嘆息する印象的な結び方である。
 浦安弁の目新しさに、「私」のモノローグがあるかと思うと、「私」を客観的に凝視し伸びやかな筆づかいが面白い。東京から離れたこの「町は孤立していた」。「ひらべったく密集した、一とかたまりの、廃滅しかかっている部落といった感じ」の住人たちとの付き合い、少年にしては小賢しい「悪童」らと過ごす日々。「べか舟というのは一人乗りの平底舟で、多く貝や海苔採りに使われ、笹の葉のような軽快なかたち」をし「外側が青いペンキで塗ってある」。その「ぶっくれ舟」を「あいそ笑いをする」「冷たく鈍い眼や、狡猾そうな口つき」の強欲な「芳爺さん」から買わされてしまうのだ。
 原稿を書き、釣りをしたり、スケッチブックを持って気楽に暮らすよそ者の「私」は、いつしか「蒸気河岸の先生」と「綽名」で呼ばれる。「この町の住人たちは独特の論理をもってい、(それは多く権威を嘲弄するという観念が基本になっている)」のだった。いつも「土地の出来事」を知らせて助けてくれる「釣舩宿千本の息子の長」は、「雪駄ばきで、口に飴を咥え」「なにかのオペラの中のアリアを、鼻で、かなり正確にうなる」ませた小学3年生。亭主のいる浮気女と若い男との原色の逢引などは常識の出来事で、「この土地では少年と少女の差別なしに、男女間の機微に触れた言葉をじつによく知って」いて、実に開放的なのだ。
 勧められても日に一本のタバコしか吸わない「釣りの穴場を」知り尽くしている船頭の「ぐず倉」。「沖の百万坪と呼ばれる広大な荒地」には「貝殻を焼いて石灰を作る工場」があり、異様な風体の半分裸の男女の工員たちは、町の住民たちとは「決してつきあおうとはしない」。「幸山さん」は船長を「定年になったが」「船からおりることを拒絶し」、退職金の代わりに廃船となった「蒸気船」を受け取り、船内で「独りぐらしをしている」訳ありの「変わってるじいさん」。作品には聖書の物語を講釈するシーンもある。
 自伝的小説のようであってそうではないのがこの作品。「浦安時代の作者の体験は、『青べか物語』の原型を形成してはいる」が、実際に作者が住んだ浦安ではなく、恣意的な小説技法で彩色された虚構の町。想像力をたくましく「ノン・フィクションとみせかけた精妙なフィクションにほかならぬ」とは平野謙の見解。評論家の木村久邇典も「最高の文学的到達と絶賛される散文詩的世界の創出に成功し」「これほど人間の原形質をたくみに浮彫りにした作品は、すくなくとも日本文学には類をみない」と断言。作家の山口瞳は、エッセイに「小説でも身辺雑記でも青春回顧録でもなく、あれこそは、まさに詩だ」とし、周五郎が「天成の詩人である」と疑わない。
 無知で単純で風変りな者たちの、ありのままの自分をさらけだしている「この土地の人たち」と風物や「あんこだまと魚煎餅」を愛した周五郎。その視線はどこまでも庶民の傍らにいて温かい。こうして名作『青べか物語』は浦安の代名詞になった。

原田甲斐を新解釈
 長篇小説『樅の木は残った』は江戸前期、仙台藩伊達家で起きた騒動を題材にした話。芝居や講談などで人気を博した伊達騒動を、著者は山本質店で働いていた十代後半、すでに構想していたらしい。昭和29年から新聞に連載し、昭和33年に書き下ろし発刊。ベストセラーとなった翌年にTBSラジオが「山本周五郎アワー」を放送、昭和37年には本作を原作とする『青葉城の鬼』が映画化された。死後3年目に、NHKの大河ドラマになり、以来、山本文学の代表作として高い人気を博してきた。
 歴史小説の形式だが「騒動の秘密やその誘因や経過を語るのが目的でなく、登場する人物がその渦中でどう生きたかを探究する」ことが主眼。悪人を描けない作家の山本が、家老の原田甲斐に焦点を合わせ、騒動の収束に奔走する姿や、登場人物の呼称が飛びかう様子を丹念に描いている。
 伊達家は、老中・酒井雅楽頭(うたのかみ)が背後で操る兵部派と安芸派に分裂していた。兵部は幕府の酒井と交わした伊達藩二分割を策動していたが、幕府の伊達藩潰しの動きを国家老となった甲斐は察知していた。そして伊達家存続のため志を同じくし血盟を交わした安芸らと袂を分かち、兵部の腹中でその動静を密かに探索する。
 本来なら穏やかな暮らしを愛する甲斐であるのに、いつしか企みや渦中にまきこまれてゆく様を「全く自分に向かないことだ」とつぶやく彼は、妻・律と離別してしまう。酒井家に奥女中として入り込むおみや、湯島別邸のおくみ、甲斐を淡く慕う宇乃ら女性たちが登場する。兵部派から起こされる挑発行為に対しては恣意的に敵側の兵部に有利に働くように画策する。
 味方を裏切り、敵をだます謀略をめぐらしながら、甲斐は幕府と兵部の間で結んだ証文を入手。「みずからすすんで『汚名の冠』をかぶった甲斐」の死によって伊達家は取り潰しを免れるが、4200石の原田家は断絶、一族眷属の男子は死罪に処された。
 甲斐は逆臣か、「伊達家の悲運を救った」忠臣か? 作者山本は、定説では悪党とされる甲斐を、武士の志を貫いた悲劇の忠臣だったと、新たな解釈と人物像を打ち出している。
 文芸評論家の川西政明は「敵も味方をも欺き、最後に目的を貫通させた人物こそ原田甲斐だという設定にした」新解釈を、敵・味方の両方の陣営に取り入って情報を集め、「その情報を使って敵の謀略の裏をかく。それは最高のスパイ小説の醍醐味を備えているとも言える。…そこに近代的人間像が確立している」と高く賞賛する。甲斐と兵部の間でくり出される虚々実々の政略戦は、現代の政治のメカニズムにも似た今日性があると明示した評論家の田野辺薫もいる。奥野信太郎は「実に的確な筆致で写し、…最後まで読者の心をとらえて放さない」傑作と論じた。

晩年、キリスト教に
 今日まで根強い読者層を誇る山本周五郎には様々なエピソードがある。個性的で複雑、神経質な性質で、人間を愛する反面、「虚飾と虚栄」を嫌悪した。『日本婦道記』への直木賞や『樅ノ木は残った』『青べか物語』への文学賞をことごとく辞退し、講演も嫌いだった。和服を着こなし、映画とブドウ酒を愛し、欧米文学を読み、一流の作家になっても己を律し常に文学の深化を目指した。
 横浜本牧の独居生活で昭和42年、執筆中に亡くなった。死の4年前ころからキリスト教に傾斜して『虚空遍歴』を出版。絶筆は「現代の聖書を念頭に」愛と生と死をテーマにした人生探究の小説『おごそかな渇き』。円熟期だっただけに、63歳の急死は惜しまれる。
 神戸市の須磨寺、神奈川県韮崎市など各地に文学碑があり、宮城県の船岡城址公園には「樅ノ木は残った」文学碑がある。1988年、物語性と登場人物重視の山本周五郎賞が創設された。
(2023年11月10日付 805号)