第75回正倉院展を見て
2023年11月10日付 805号
奈良国立博物館で10月27日から11月13日まで、第75回正倉院展が開かれている。第1回は昭和21年で、敗戦で傷ついた日本人に、古代の素晴らしい文化を見ることで元気になってほしいとの思いで開催された。10月27日の内覧会で、奈良国立博物館の井上洋一館長は「今回はコロナ禍で傷ついた心を癒やす意味合いもある」と語っていた。
シルクロードの終着点でもある奈良には、中東をはじめ中国、朝鮮などからの渡来品も残されており、既にもとの国では消滅した品も多いことから、各国の研究者も正倉院の宝物に熱い視線を注いでいるという。
内覧会に招かれた韓国・国立慶州博物館の咸舜燮(ハムスンソプ)館長は「1300年以上前に作られたものが原形をとどめているのは極めて珍しく、世界的な文化遺産だ。韓日両国の研究者が交流し、研究が進むといい」と挨拶していた。
聖武天皇の袈裟
最初の展示場で目を引いたのは、光明皇后が記した聖武天皇の遺愛品の目録『国家珍宝帳』の筆頭に掲げられた「九条刺納樹皮色袈裟(くじょうしのうじゅひしょくのけさ)」である。九条衣は格式の高い儀礼服で、刺納とは刺し子縫いのこと。白や紺、淡青、緑、黄緑、赤紫などに染められた平織りの絹をほぐしたうえで、細かく綴り合せている。樹皮色とは最上の袈裟である「糞掃衣(ふんぞうえ)」の「糞掃」の語を避け、様々な色が重なった樹皮に似ていることから名付けたという。珍宝帳には「御袈裟」と記されているので、実際に着用された可能性もあり、それゆえ最も尊いとされてきた。
自らを「三宝の奴(やっこ)」(仏弟子)と称するほど篤く仏教に帰依した聖武天皇は、史上初めて出家した天皇である。律令制と仏教による国づくりは聖徳太子の時代に始まり、奈良時代の聖武天皇による東大寺の大仏造立で概成を見たと言えよう。聖徳太子と同じように聖武天皇も古来からの宮中祭司を守りながら、外来の宗教である仏教を国の礎の教えとしたのである。
人類史において宗教は、アニミズム的な段階の収穫の喜びや死の悲しみを分かち合う儀礼として始まり、それが集団を結びつける力として作用してきた。つまり、より大きな社会形成に伴い発展してきたのが宗教と言えよう。
その宗教に「救済」の概念が生まれたのは、紀元前8世紀から2世紀の頃で、ヤスパースは「枢軸の時代」と呼んでいる。救済は個人の内面にかかわる思いで、それによって宗教は普遍性をもつようになり、東西で世界宗教が生まれてきた。アジアでその代表が仏教である。
聖武天皇の仏教信仰には光明皇后の影響も大きいとされる。光明皇后が開基の法華寺は、総国分寺の東大寺に対して総国分尼寺と位置づけられ、正式には法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)という。自己と国家との一体感があった古代において、国の災いは自分の罪のゆえとの思いが強かったのであろう。玉体を守ることが国を守ることであった。
そうした天皇と国家との関係を仏教儀式として完成させたのが空海で、その代表が玉体安穏・鎮護国家・五穀豊穣・万民豊楽を祈る後七日御修法(ごしちにちみしほ)の法会である。江戸時代までは宮中で行われていたが、神仏分離によって明治4年に廃止され、明治16年に再興されてからは、勅使を迎え東寺の灌頂院で真言宗最高の法儀として執り行われている。
自らの内に罪を感じ、救いを求める気持ちは天皇や貴族だけでなく庶民も同じことから、やがて救いの宗教としての仏教を易しく説く鎌倉仏教が生まれた。空海から親鸞までの400年間は、日本仏教が一人ひとりの心に到達する営みの期間と言えよう。
日本の歴史が国際情勢、平たく言えば外圧によって変わってきたのは地政学的な必然で、近現代の日本は幕末・維新から始まる。日本仏教も、圧倒的な西洋文明、西洋近代哲学の洗礼を受け、見直しを迫られた。それによって始まる近代仏教が今の日本社会にある仏教である。
救いとは何か
ところで「救い」とは何か。心の中の状態であれば、どんな境地が救いと言えるのか。今に続く世界宗教が、いずれも都市から生まれてきたことから考えると、人がそこから生まれてきながら、離れてしまった自然との一体感の回復ではないか。ウパニシャッド哲学のいう「梵我一如」である。
梵( ブラフマン=宇宙を支配する原理)と我( アートマン=個人を支配する原理)が同一だとする思想で、釈迦はアートマンをなくす道を説いたが、それも一体化への一つの道であろう。道はいろいろある方がいい。いずれにせよ、奈良時代の宝物を見て宗教の長い歴史に思いを馳せるのも、日本人の幸せであろう。