旧岩倉村の石座神社例大祭
岩倉具視に因む踊りも/京都市左京区
京都市左京区岩倉に鎮座する石座(いわくら)神社の例大祭が10月21日、斎行された。21日の真夜中2時半から境内で2基の大松明が焚かれ、燃え尽きるころ神輿が石段を下って繰り出し、御旅所である山住神社へと巡幸。そして午後2時過ぎから石座神社に向けて還幸し、境内の神楽殿に納められた。神楽殿の前では、氏子女性8人による「岩倉史謡(しよう)踊り」が奉納された。踊りは、明治維新の元勲である岩倉具視が幕末、岩倉に幽閉されていた故事などを歌いこんだ歌に合わせて、江戸末期の村娘の衣装を着た旧岩倉村の氏子女性が踊った。
大松明が焚かれるのは、日本海側から全国愛宕の総本山である愛宕神社(京都市右京区)近くまで、かつてのいわゆる“鯖街道”に沿って点在する火祭りの一つ。地元の伝承によると昔、雌雄2匹の大蛇が村民を苦しめていたので石座神社に祈ったところ、石座の神が聖なる尼僧の姿で現れて「神火でもって退治せよ」と託宣を下されたことに由来する。松明が燃え尽きた頃に神輿が巡幸することから、神が神輿に乗り移って巡幸する前の浄めの火の意味もあると考えられる。
この岩倉に幕末、具視が3年間幽閉されていた。具視は、公武合体策として孝明天皇の妹和宮を将軍家へと降嫁させる上申書を提出し、これが幽閉の原因となる。幽閉は、佐幕思想の持ち主と見なされて身の危険があったため身を守るためでもあったが、岩倉村民は具視を守り通した。この3年間に具視は将来の日本の姿を考察し、坂本龍馬など幕末の運動家たちと密かに交流を重ね来たるべき維新に備えた。1868年の大政奉還の後、新政府の中枢に入り、明治政府の要職を占めたことはよく知られている。
祭で奉納された「岩倉史謡」には「やぶれ柴の戸 ここから射した 明治維新の朝日の光 公を憶(おも)えば ただ涙」と、岩倉村民の具視への思いを歌っている。また幽閉生活の3年間に具視の想いを「『時は宝』と白地に染めた 公の情けの手拭い模様 藍のかほりはいつまでも」と歌っている。
これは維新後に具視が岩倉村民への感謝を込めて村に300円の現金と、各戸ごとに「時は宝なり」と染め抜いた手拭いを贈呈したことを歌い込んだもの。踊りでは村娘の衣装を着た8人の踊り手が、「時は宝なり」と染め抜いた手拭いの一方を噛み、他方を左手で伸ばして見せて踊り、大きな拍手を受けていた。