近江神宮と白村江での比羅夫の働き
連載・京都宗教散歩(23)
ジャーナリスト 竹谷文男
近江神宮(網谷道弘宮司、滋賀県大津市)は、京都駅からJRと徒歩で30分ほどで行ける。第38代天智天皇を御祭神として昭和15年(1940)、ゆかりの近江大津宮跡に創祀された。百人一首が天智天皇の歌から始まることから競技かるたの聖地として、あるいは桜の名所として知られている。境内には、同天皇が日本で初めて設けた水時計(漏刻)が再現されており、また日時計も置かれている。
日時計を載せている方位盤には、各地の地名とその距離が彫り込まれていて、西方向には「白村江830㎞」と銘記されている。白村江とは天智天皇2年(663)、日本・百済の連合軍が、唐・新羅連合軍と、百済の白馬江(現・錦江)で戦って大敗を喫した「白村江の戦い」の場所だ。神社の境内に方位盤で、白村江とその距離が示されている例は他に無いだろう。
白村江の敗戦は、日本だけでなく北東アジア全体の大事件だった。天智天皇(中大兄皇子)の信頼が篤い能登の水軍は、以前から朝鮮半島や沿海州などへ何度も出動していた。
斉明天皇6年(660)、能登水軍の長・阿倍野臣(あべのおみ)は、200艘を率いて蝦夷地(北海道)から沿海州の粛慎(みしはせ、しゅくしん)に遠征し、「大河」と表現される黒竜江(アムール川)にまで到達したと言われている。この時、能登の有力者だった能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)は粛慎との戦いで戦死した(『日本書紀』)。
何十年も高句麗遠征を続けていた唐は661年7月、蘇定方(そていほう)将軍と草原の民・突蕨(とっけつ)の契苾何力(けいひつかりき)王子の軍が水陸から高句麗を攻撃したが、撃退されてしまう。そのため唐の矛先は百済に向かった。救援の要請を受けた阿部比羅夫(あべのひらふ)は翌8月、能登水軍を率いて百済に武器食料を送り、翌天智元年(662)5月にも、軍船170艘を率いて救援物資を届けた。
そして天智天皇2年(663)、日本・百済の連合軍が唐・新羅連合軍と戦う白村江の戦いが始まる。同年3月、日本は2万7千人の軍勢を、先中後の三軍に分けて百済に向かわせ、後軍は比羅夫が総司令官として能登水軍を率いた。白村江に布陣した唐の軍船に対して8月27日、先に着いた日本の水軍が攻撃したが敗退し、続いて翌28日、中軍の軍船が唐の軍船に攻撃を仕掛けたが、逆に挟み撃ちにされ、連合軍は多くの船や将兵を失う。そして9月24日、比羅夫率いる後軍の能登水軍は、百済・日本の皇族、将兵、人々を乗せて朝鮮半島から撤退した(『日本書紀』)。
撤退は弖礼城(てれさし=現・韓国慶尚南道南海島)からで、同城は韓国南岸の、全州から流れる蟾津江(ソンジンガン)の河口にあり、半島部の麗水(ヨス)の東向かいにある。滅亡した任那日本府も、朝鮮出兵した豊臣秀吉の軍も、多くはここから撤退した。
白村江敗戦の翌3年(664)2月、天智天皇は新しく冠位二十六階を制定し、阿部比羅夫は上から7番目の「大錦上」に叙せられ、九州の備えのため筑紫大宰帥に任ぜられた(『続日本紀』)。
能登水軍の本拠である七尾湾は、波が穏やかな天然の良港で、沖には能登島が浮かび、その尾根に須曽蝦夷穴(すそえぞあな)古墳がある。7世紀中頃の構築と見られる方墳で、大化改新(645年)後の薄葬令の後に造られた。古墳の二つの玄室は、高句麗墓に見られる「隅三角持送(すみさんかくもちおくり)構造」によって天井が維持され、玄室は別々に設けられ、各羨道は南側から通じている。
一説では、この蝦夷穴古墳が、比羅夫に従って粛慎に遠征し、戦死した能登馬身竜の墓とされ、そうであれば、もう一つの玄室は阿倍野比羅夫のものである可能性が高い。比羅夫も馬身竜も『日本書紀』に特筆された能登水軍の指導者で、古墳の造られた7世紀半ばに活躍している。羨道から外を眺めると、穏やかな七尾湾が望め、能登水軍の将帥たちが静かに眠るには最もふさわしい場所に思える。
「能登の奇祭」と言われるお熊甲祭で担がれる枠旗は、太く長い角材2本を平行に固定した枠の上に支柱を立て、その柱の上から長大な旗を吊り下げる。枠旗は、船と帆を象徴しているかのようだ。
行列は、重い枠旗の柱と旗を地面すれすれに傾け、あるいは傾けたまま進む妙技を披露し、それは荒波を乗り切った航海を連想させる。行列は、高く澄んだ鉦の音で単調なメロディーを奏でる。海上では陸上での低い太鼓の音よりも、金属音の方が伝わりやすく、信号に適している。祭りでは、死者との別れを惜しむかのように枠旗が三度、本殿に向けて寄せては退き、退いては寄せる。七尾湾を見下ろす古墳と同様この祭は、飛鳥時代に波頭を越えて半島や大陸から帰還した能登水軍の英雄譚を遺そうとしているかのようだ。
(2023年10月10日付 804号)