女人高野の室生寺と龍穴信仰
連載・神仏習合の日本宗教史(18)
宗教研究家 杉山正樹
高野山が女人禁制であった時代、女性の信仰を受け入れてきた寺院がある。“女人高野”と呼ばれる宀一山(べんいちさん)室生寺である。宀一とは、「最も優れたる根本的なものを覆い包んでいるところ」という意味合いがある(鷲塚泰光『室生寺』保育社)。
奥深い山間と渓谷に囲まれた室生寺は、清絶幽絶の境を今も湛える。室生寺の創建に関わる根本史料『宀一山年分度者奏状』は、「宝亀年間(770~781)、皇太子・山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒のため浄行僧(行いの正しい僧)5名が室生山に派遣された。浄行僧らが延寿法を修したところ効験あらたかであったため、天皇が彼らにお命じになり室生寺が建立された。これより以後、龍王は霊験を顕し国家を鎮護した。」と伝える。
この浄行僧の中に、鑑真から受戒した興福寺・大僧都の賢璟(714~793)がいた。賢璟は、藤原朝臣種継暗殺後、次々と起きる怪事・早良親王の怨霊譚に苦悩する桓武天皇の心の支えとなり、新しい都平安京への遷都を導いた。室生寺はその後、賢璟の資・修円に受け継がれ境内の多くが整備される。現存する五重の塔(国宝)は、法隆寺に次ぐ最古の建造物でこの頃の遺構と考えられている。
室生は、奈良盆地から東方約20キロ、林野の先に突然開ける山里である。付近は、深い谷や切り立った崖が多く独特の景観を呈す。これは、1万5千年前の室生火山群の噴出分により、柱状節理を特徴とする火山性・溶結凝灰岩を地盤に土地が形成されたためで奇岩や洞穴が多い。洞穴は龍穴、すなわち龍神の住み家として信仰を集め当地は、室生寺創建のはるか前より、祈雨や止雨の霊地とみなされていた。賢璟は、地相に関する見識を有していたため、室生寺創建にあたりこの地を選定したと伝わる。
室生寺から東方、室生川を1キロほどさかのぼった所に室生龍穴神社が位置している。創建不詳の古社で、水の神・龍神を祀る。奈良から平安時代にかけ雨乞いの神事が、頻繁に行われた社格の高い神社と伝わる。祭神は、慈雨を降らす山の水神・高龗神と八大龍王の一尊・善女龍王である。善女龍王は、弘法大師が神泉苑で雨乞いを行った時に勧請した龍王として知られている。
龍穴神社の拝殿を山中に分け入ること徒歩30分、本宮の奥宮に到着する。大きな岩盤の上を滑るように流れる招雨瀑(しょううばく)の脇に、ぽっかりと穴の開いた洞窟が、龍神が住むと伝わるご神体の吉祥龍穴である。神秘の佇まいに、体ごと吸い込まれる感覚を覚える。
貴船神社奥宮・岡山備前龍穴と並び、日本三大龍穴の一つに数えられ、かつて奈良の猿沢の池に棲んでいた龍が、清浄の地を求め室生へ移ってきたという。参拝の折には、社務所で借りた淨衣を羽織り、遥拝所では土足厳禁である。桓武天皇の病気平癒が祈られた故地が、まさにこの吉祥龍穴であったという。
室生寺建立のきっかけとなった龍穴への国家的信仰は篤かったようで、貴船神社奥宮、大和の丹生川上神社とともに、祈雨・止雨の祈願所として重要な位置を占めていた。室生のムロは、フロ・ミモロ(御室・御諸)と同義で神の在るところという意味合いがある。
秋の室生寺と龍穴神社は、龍穴祭と呼ばれる盛大な祭りが催される。室生寺境内の天龍社に龍神を迎え、龍穴神社にお渡りをすると御幣と鈴を持った雄獅子・雌獅子の二頭が舞を披露する。山の斜面から眺めた室生の里は、春は桜とシャクナゲ、秋は紅葉が美しく、晩秋には、柿の実が秋の陽に染まる。日本の懐かしい風景を今に残す数少ない郷邑である。
室生寺は、法相宗・天台宗・真言宗の影響を受けつつ幾多の困難を経たが、仏教美術においては、多種多様な形式と歴史が保存された。とりわけ初期密教美術においては、国宝と重要文化財の宝庫となっている。僧兵を持たなかった室生寺は、京から遠い山間に位置したことが幸いし、内乱に巻き込まれることがなかった。
徳川家光の側室で、5代将軍綱吉の生母である桂昌院は、室生寺に多額の寄進を行い、仏塔を修復するなどして寺を再興させた。桂昌院は、仏教への帰依がことのほか深く、日本各地の寺院の再建や建立に尽力している。室生寺は、室生龍穴神社の神宮寺となり、慈雨の水神・高龗神と仏教の護法善神・龍神を習合させた。近世以降は、“女人高野”の名にふさわしい癒やしの聖地として息づき、訪れる多くの女性たちを見守り続けている。
(2023年10月10日付 804号)