藤原不比等/律令制を導入、法治国家の礎築く

連載・愛国者の肖像(13)
ジャーナリスト 石井康博

藤原不比等

 藤原不比等は斉明天皇5年(659)に中臣(藤原)鎌足の次男として生まれた。母は車持君与志古娘(よしこのいらつめ)。蘇我入鹿を暗殺した乙巳(いっし)の変の後、中大兄皇子(天智天皇)と共に大化の改新を推し進めた中臣鎌足は神事・祭祀を司る中央豪族の出であるにもかかわらず、政治の中枢に躍り出て、権力を掌握した。その息子として期待を受けた不比等は、幼少期に文章の読み書きに秀でた渡来系の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)のもとで学び、英才教育を受け、法律学者としての土壌が築かれた。
 天智天皇8年(669)に父の鎌足が死去し、次いで天智天皇が崩御すると、天智天皇の息子、大友皇子と弟の大海人皇子(天武天皇)の間で戦いが勃発(壬申の乱)、まだ14歳だった不比等はどちらの側にも立たず中立を保った。鎌足の死後も養父として不比等を教育した田辺史大隅のおかげで不比等は最高レベルの学識を得たが、天智天皇の側であったとみなされ、天武天皇の治世で不遇な扱いを受けた。壬申の乱で鎌足ゆかりの人々が政治の中枢から一掃されたため、新設された制度によって下級官吏の大舎人として出仕するところから始めるしかなかった。
 天武天皇7年(678)に蘇我娼子(しょうし)と結婚、名門蘇我氏とつながることにより藤原家の立場を不動のものにする。娼子との間に武智麻呂(藤原南家の祖)、房前(北家の祖)、宇合(式家の祖)が生まれる。その後、不比等は天武天皇と鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、持統天皇)の間に生まれた草壁皇子に仕えるようになる。草壁皇子から兄のように慕われ、信頼され、黒作懸佩刀(くろづくりかけはきのかたな)を与えられている。草壁皇子は吉野の盟約により後継者となるが、27歳の若さで病死してしまう。
 不比等は持統天皇3年(689)、判事に任命され、持統天皇の治世で草壁皇子の息子、軽皇子(文武天皇)を持統天皇の後継者とすることに大きな役割を果たした。持統天皇の譲位により文武天皇が即位すると天皇、上皇からも信頼され、政治の表舞台に現れる。娘の宮子は文武天皇の皇后となり、首(おびと)皇子(聖武天皇)が生まれている。
 天皇の絶対的な信頼を受け政治の中核を担うようになった不比等は、白村江の戦いでの大敗の後、大きく転換した朝廷の政策をさらに発展させた。もともと隋・唐の制度を日本に導入し、天皇家を中心とした中央集権国家を形成する試みは聖徳太子の頃から行われていたが、地方の豪族などの抵抗でなかなか進まなかった。豪族たちから支持され、壬申の乱の後に天皇として君臨するようになった天武天皇も律令制の導入を試みたが、豪族の力を無視はできない。だが、もともと冷遇されていた不比等にはしがらみがなく、大きな変革を断行するのに障害も少なかった。
 大宝元年(701)に文武天皇の名で本格的な律令法典である大宝律令を刑部(おさかべ)親王と共に制定する。「律」6巻、「令」11巻の全17巻から成り、その内容はおおむね唐のものに近く、部分的に日本の実情に合わせ改変していた。律は刑法に、令は行政法・訴訟法・民法・商法などに当たる。日本初の体系的な法律で、これにより日本は法治国家となった。天皇を中心とした中央集権体制が確立され、元号の使用や、文書の形式、地方官制、税制、戸籍などを整備し、大化の改新に始まる公地公民制を盤石にした。
 不比等は外交でも類稀なる手腕を発揮する。隣国の新羅は668年に高句麗を滅ぼし、676年に唐を撃退し、朝鮮半島を統一、唐の律令制度を導入し、都の慶州を中心に軍事的にも強力になり、仏教文化も花開いていた。
 新羅と向き合う必要性に迫られた日本は、友好的な関係を結ぼうと使節を派遣した。だが、力が強くなるにつれ、新羅の使者の態度が高圧的になり、関係が悪化する。そこで不比等は唐との関係を強化するため遣唐使を再開した。大宝2年に腹心の部下粟田真人を執節使とする遣唐使を送り、その際、史上初めて「日本」の国号を使用した。翌年には則天武后に謁見し、国号は「日本」であり、首都は藤原京、そして大宝律令を制定したことなどを知らしめた。日本は未開の国ではなく文明国であることを世界に示したのだ。そして副使巨勢邑治(こせのおおじ)などの一部は唐に残って律令制度の運用や都市づくりなどを学び、次の遣唐使船で帰国した。そこでの経験が、和同開珎の鋳造や平城京遷都に影響している。
 慶雲4年(707)に文武天皇が25歳の若さで崩御すると、息子の首皇子はまだ7歳だったため、母親の阿陪皇女(あへのひめみこ)が即位し元明天皇となった。和銅元年(708)には日本初の流通貨幣、和同開珎を鋳造し、同年に不比等の進言により「平城京造営の詔」を発布する。それは唐の長安を模した都を造る計画であった。そして和銅3年(710)に平城京に遷都。そこには首皇子の即位のために立派な都を整え、豪族の影響力を抑え、強固な権力基盤をつくるという目的があった。
 また、不比等が政治の実権を握っている期間に、不比等が大きくかかわっていたとされる『古事記』が和銅5年(712)に、『日本書記』が養老4年(720)に完成している。
 首皇子は和銅6年に立太子し、霊亀2年(716)には不比等の娘・光明子(光明皇后)がその妃になった。その後も不比等は大宝律令の改正に取り組み、より良い法律を施行すべく養老律令を撰修していたが、養老4年(720)に病死した。享年62。
 藤原不比等は政治、経済、文化、宗教のあらゆる面において、日本という国の骨格を作り、新羅、唐という強大国家の脅威から日本を守り、法を整備し、天皇を中心とする国家を構築した。不比等のおかげで今の日本があると言っても過言ではないだろう。

(2023年10月10日付 804号)