現代人の「祈り」と「救い」
2023年7月10日付 801号
浄瑠璃寺の国宝九体阿弥陀像は平安時代後期、阿弥陀を念じると極楽浄土へ迎えられるという浄土信仰の広まりを伝えるもの。阿弥陀仏の「お迎え」は、その人の生前の行いによって上品上生から下品下生まで九つのランクに分けられるので、九品を象徴する9体の阿弥陀如来を並べ、横長の堂に安置することが流行った。それが現存するのは浄瑠璃寺だけという。
浄土信仰の基礎をつくったのは平安時代中期、『往生要集』を著した比叡山横川の僧源信で、多くの経典や論書から、極楽往生に関する重要な文章を集めた。死後、極楽に往生するには、一心に仏を想い念仏の行に励む以外にないと説くとともに、地獄・極楽の様相や、後に徳川家康が旗印に掲げた「厭離穢土欣求浄土」の思想を広め、貴族をはじめ庶民にも浸透していった。鎮護国家の教えとして受容された仏教が、一人ひとりの救いの教えとなったのである。
後生の一大事
世界最古の小説とされる紫式部の『源氏物語』にも源信の影響がみられる。物語の最後、「宇治十帖」に登場する浮舟は、源氏の次男薫と今上帝の三の宮・匂宮(におうみや)に愛され、葛藤から入水自殺を図る。幸い、浮舟は死に至らず、比叡山横川の僧に助けられ、やがて尼になるが、この僧のモデルが源信とされ、紫式部の浄土信仰がうかがえる。
古代の仏教は宗教を超えた総合的な学問で、音楽から絵画などの芸術から建築、土木技術まで、当時の最先端の知の集積として渡来してきた。部族連合体から統一国家への転換期にあった日本にとっての幸運で、以後、律令制と仏教による国づくりが進められた。
飛鳥時代から奈良時代にかけて学ばれた仏教が、古来からの神道と習合し、日本独自の宗教として発展したのは、最澄と空海の登場が大きい。平安仏教は貴族仏教と言われるが、現世利益の願いは階層に関係なく、もともと平等意識の強い日本社会で、やがて庶民にも浸透していった。その際、中心になったのが、後に易行とされた浄土教である。
浄土信仰の核心は源信の言うように「後生の一大事」、人は死んでからどうなるかである。その後、衆生の救いを本願とする阿弥陀如来に身を委ねることを説く教えが法然の浄土宗として広まる。念仏は本来、仏を念じ、見ることで、それなりの修行を要したが、法然によって、南無阿弥陀仏と唱えるだけでよいという称名念仏の教えとなった。弟子の親鸞はそれをさらに先鋭化して絶対他力を説き、当時、一般的だった現世利益の祈祷や呪術を否定、神祇不拝を主張した。源信がまとめた「臨終行儀」も自力だと拒否したという。
もっとも、小山聡子・二松学舎大学教授の『浄土真宗とは何か 』(中公新書)によると、親鸞の教えは他力と自力の間で揺れがあり、妻や弟子たちには当時の風俗にならう傾向があったという。
浄土真宗が日本思想史でさらに大きな役割を演じたのは、明治の近代化においてである。キリスト教に基づいて近代的個人主義を発達させた西洋文明に対抗できるのは、一神教に似た阿弥陀一仏信仰の真宗だとして、キリスト教の浸透を防ぎつつ、近代的自我の形成に役立つ教えとして知識層に受け入れられた。その象徴の一つが倉田百三の『出家とその弟子』で、人間親鸞を手がかりに自身の生き方を考える「教養人」を多く生み出した。
そして現代、福祉が政治の基本課題となり、歴史的に宗教が担ってきた分野の多くが、宗教の外に出ていった。しかし、科学技術がいくら発達しても、人がやがて死ぬことに変わりはない。
死を思い生を深める
俗に釈迦から一番遠い仏教が浄土真宗と言われるが、いわゆる二種回向の教えは釈迦に近いのではないか。人は亡くなると浄土に往って阿弥陀如来に救われ、その後、現世に還って、縁ある人たちを仏に導くという往相回向と還相回向である。
弟子に死後のことについて聞かれた釈迦は、分からないことを考えるより、今どう生きるかを考えるよう諭した。また、釈迦の死後、どう生きたらいいか聞く弟子に、「自燈明法燈明」と、自分自身と宇宙の真理を灯りにすればいいと語った。
これを現代風に考えると、死後のことは阿弥陀仏に任せ、いわば棚上げして、現世で人々のために全力を尽くせとなる。生物学的には、死は進化のためで、命は子孫に継がれていくという。その知見は、柳田國男が『先祖の話』で言う、死者は子孫の近くにいて見守っているという日本人の死後観と矛盾しない。
「祈り」は相対的な人間が絶対的な存在への語りかけであり、「救い」とは有限な人間が無限の宇宙とつながる感覚ではないか。逃れられない死を思うことは、そのきっかけであり、生の深まりにつながることは今も昔も変わらない。