ガリレオシリーズ『容疑者Xの献身』東野圭吾(1958~)

連載・文学でたどる日本の近現代(39)
在米文芸評論家 伊藤武司

東野圭吾

専門は電気工学
 東野圭吾は大学で電気工学を学んで推理小説家になった異色の作家。高校生のころSF小説を読むうちに興味で書き始め、大学卒業後、技術者として会社に勤めながら創作した。デビューから21年目の1998年、『容疑者Xの献身』で直木賞と本格ミステリ大賞をダブル受賞。2023年時点で国内発刊数1億部という驚異的な数を誇っている。
 27歳の時、ミステリー小説『放課後』で江戸川乱歩賞を受賞、『秘密』が日本推理作家協会賞を獲得すると一気にブレイク。これらノミネートの各作品は雑誌連載後に映像化された。
 海外では1996年に『悪意』が英訳され、次に三島由紀夫の『豊饒の海』の転生物語と類似しているファンタジー小説『秘密』が、欧米諸国で注目されるようになった。2012年には『容疑者Xの献身』がアメリカ図書館協会のミステリ部門最高推薦図書に選ばれ、エドガー賞、英国のダガー賞の候補にもなった。今日、東野の作品は30か国以上で発行され、中国だけで4500万部という大ブーム、韓国・台湾、東南アジアでも急成長している。
 名作『容疑者Xの献身』は、ガリレオシリーズ全10弾の3番目の作品。シリーズ発行部数が国内1500万部で、名実ともに東野の代表作である。人気を博した要因は、文章がサラッと読みやすく平明、早いテンポのストーリー展開という特徴がある。小説の舞台が主に東京で、都会的なスピード感も現代人の心象や気分にマッチしている。本作は、かなり早い段階で犯人を登場させ、冒頭の1で物語の大枠を象徴的に顕している。

圧巻の終わり方
 先頭は「午前七時三十五分、石神はいつものようにアパートを出た」で始まり、職場へ向かう肌寒い春先の朝の情景が映しだされる。隅田川の川沿いの遊歩道を南下する途中、ホームレスがたむろするテントや洗濯物の脇を横切り、さらにその先の清洲橋の袂で階段を上がって道路に面した弁当屋「ぺんてん亭」へ立ち寄る。いつもの「おまかせ弁当」を注文し、カウンターで「白い帽子をかぶった花岡靖子」から受け取る。これが私立高校で数学を教えている中年男・石神哲哉のお決まりのコース。作者の力量が感じられるのは、このなんの変哲もない箇所で事件をシンボライズする人物やホームレスのいる風景を活写していることである。
 ストーリーの導入部で犯人像と内部構成を浮きあがらせるという、著者特有な筆運びである。また、人気の秘密は、これぞミステリーの真髄といえる圧巻の終わり方にもある。想像をこえるラストの意外性と衝撃は読者を驚嘆させ、犯罪のなぞ解きや結末の絶妙さなどがファンから根強い支持を得ている。
 デビュー以来、東野は広いテーマに関心をむけた。学園小説、オカルト風の創作、パロディなど作品は多様。学園ミステリー『同級生』は青春のラブストーリーでもあり、長篇『パラレルワールド・ラブストーリー』は、二人の幼なじみと女友達がおりなす恋と友情の物語。『手紙』は、小説のシフトを加害者側からさばいている。殺人者を身内にもつ親族・知人がいる場合、無意識にはたらく偏見や差別感など、読者は自分が当事者だったらどう対処するかなど問題をつきつけられる。
 2001年の長篇『片想い』では、時代に先駆けてLGBTQ問題に焦点をあてた。性同一性障害(トランスジェンダー)をかかえている日浦美月は、かつて「ふつうの女だった」が、今は男として生きている。かつてのボーイフレンド・西脇哲郎は保険会社の社員で既婚者。10年ぶりの再会をきっかけに引き起こされる犯罪は、偏見・性差別などを内包し読者の心をラストまでひきつける。
 『夢幻花』は、本文前のプロローグ1で一つの殺人事件を、プロローグ2で若い男女の出会いを伏線として書き、物語の本筋へ入っていく。青春ドラマとサスペンスを組み合わせたような人間ドラマは、手のこんだ本格的推理小説である。
 東野にはいくつもの人気のミステリーシリーズがある。テレビ・映画化された『赤い指』『卒業』『私が彼を殺した』などの小説は、加賀恭一郎シリーズ。天下一大五郎シリーズは犯罪捜査に探偵が加わる評論的な形式。小学校の女教師と刑事が織りなす大阪を根拠とする浪速少年探偵団シリーズ、ユーモア小説の笑小説シリーズ、東京の一流ホテルで繰り広げられるマスカレードシリーズもある。
 
一気に読ませる
 東野は犯罪小説につきものの刑事生活の仔細な描写や警察の指揮権・機構などの内部にはあまり深入りせず、コンパクトにまとめあげる。これは先に記したように、ストーリーにスピード感をつけるための手法の一つで、他方、犯罪者の心理や、それにかかわる人との関係や交流の描写には力を注ぐ。タイトルのつけ方もうまく、『流星の絆』『聖女の救済』『夢幻花』『沈黙のパレード』など想像をたくましくそそられる見事なネーミングである。
 ガリレオシリーズの主人公は金縁メガネの湯川学。博学でスポーツにもたけ、物理が本業だが探偵にも興味があり、捜査協力を頼まれると断れない性格。友人の草薙俊平は、とぼけた人間味のある警視庁捜査第一課刑事の準主人公。大学のバトミントン部で仲の良かった二人は、シリーズを通じて協力しあいながら活躍する。当シリーズでは犯罪の誘因として幽霊、火の玉、テレパシー、心霊現象などオカルト的な現象が起き、これらを湯川は合理性と科学的見地から分析・検討する。
 小説の定番として現れるのが湯川が属する「帝都大学の物理研究室」や「インスタントコーヒー」。感心するのは、未解決の事件をふられたときに学者魂に火がともる様子。端正な顔立ちの頭脳がひとたび覚醒すると、仮説を立て、実験を試み、専門の数値や統計を用いながら事件の真相をマイペースで一つずつ解いていく。これが俊敏な天才的物理学者の武器であり、人間の心理を読むヒラメキも抜群で、求心力のある主人公・湯川の挙動に目が離せない。
 難解な事件が氷解していく過程が痛快で、長篇でも一気に読ませるのは、様々な仕掛けが巧みな文章力で表現されているから。そこで筋を追うだけでなく、自分なりの想像力で考えてみるのも一考。こうしたアプローチによって、湯川や草薙らと一緒に犯罪の内奥を推測するという、読書の二倍の楽しみを味わえることになる。

数学者同士の対決
 殺害された富樫慎二の元妻・靖子は、早くから刑事たちから被疑者としてマークされていた。しかし犯行の手口が、女性だけでは不可能なことを刑事の直観が教える。捜査は難航するが、やがて容疑者の一人に石神が浮上する。突発的に起きた他人の人殺しを隠ぺいするために別の殺人事件を仕立て、自分が罪をかぶるという、彼の奇妙な行動であった。
 この不可解な自作自演は、数学の理論を組み立てた精密なもので、石神の工作は成功したかにみえた…20年以上も前の最大のライバル・湯川が現れるまでは。彼を犯罪にかりたてたのは、中学生の娘と暮らす花岡靖子に恋愛感情をもってしまったことだった。
 1年前の石神は「毎日、死ぬことばかりを考え」、孤独が彼を死に追いやろうとしていた。「思い残すことなど何ひとつなかった。死ぬことに理由などない。ただ生きていく理由もないだけのこと」という無為でニヒルな日々を送っていた。ところが、アパートの隣の部屋に引っ越して来た美しい靖子に出会い、彼女の「彼を見つめる目の動き、瞬きする様子など」に、数学の難問が解けるのと同じ、完璧な美を直感したのだった。彼の生活は一変し、花岡母娘のそばにいるだけで喜びと幸福を心の底から感じるようになる。
 石神は学生時代から数学の天才といわれ、「数学以外のことには興味を示さ」なかった。その彼が博士号の取得をあきらめ高校教師に甘んじているのは、高齢で持病のある「両親の面倒をみなければならなくなったからだ」。孤独な暮らしの唯一の楽しみは、数学上の最も有名な問題の一つを「紙と鉛筆で解こうと」チャレンジすることであった。
 この難解な事件の解決に、草薙刑事は湯川の協力を求めた。湯川と石神は互いの知的実力を認め合う間で、本来なら学問の場で競う関係であったろう。それがミステリー事件で遭遇し対決するとは、あまりに冷酷な運命といえた。小説の終幕、石神の咆哮が全てを物語っている。
 全裸の男の指紋と「顔面をつぶす」という石神の命を賭した究極の献身は、不利益以外のなにものも思い浮かばない。これは病的自己顕示欲の行動か、重度の鬱の昂じた精神障害の業か? ともあれ、ラストの「絶望と混乱の入り交じった悲鳴」と号泣には、読者の多くが心を動かされるに相違ない。
 しかも、トリックを暴いた湯川も勝者ではない。彼もやりばのない悲痛に打ちのめされたからである。事件の結末をふりかえると、石神に投げかけられた湯川のさりげない一言が想起される。それは「人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいか。ただし、解答は必ず存在する」という数学の設問に類した問いかけであった。

進化し続ける作家
 ガリレオシリーズ4弾『ガリレオの苦悩』は5篇からなる短編集で、草薙の後輩の若い女性刑事・内海薫が登場する。5弾『聖女の救済』は、男女の愛と結婚がテーマ。結婚が男と女の関係だけのものか、あるいは子供をふくめた家族まで広がるのかという視点で、愛情のもつれから殺人事件に進展するミステリー。
 6弾は、自然保護を題材とする『真夏の方程式』。夏の地方の海辺にある宿を舞台に、子供が苦手な湯川が小学5年の少年と殺人事件に巻きこまれる。
 9弾『沈黙のパレード』は、法の裁きの限界を指摘し、私的復讐の交差するミステリー。殺人容疑者として連行された蓮沼は「沈黙」を通しつづけ、捜査は頓挫。蓮沼は釈放されるが、秋祭りのパレードの最中、遺体となって発見される。10弾『透明な螺旋』は房総沖で銃殺された遺体が発見され、湯川の出生の秘密が明かされるミステリー。
 東野圭吾は、日本推理作家協会理事長を2009年から4年間務め、直木賞選考委員にも6年間たずさわった。45年余のキャリアを、作家として着実に進化し続けている。
 創作に対する柔軟な姿勢から、推理小説から学園物、オカルト、科学的作品、評論、ユーモア、ファンタジーなど、いろいろなジャンルで読者を飽きさせない。人と人とをつなぐ細やかな日本的情感や、涙と笑いの人情味のある表現も味わい深い。近著には、SFミステリー・ラプラス魔女シリーズの『魔女と過ごした七日間』がある。
(2023年7月10日付 801号)