浄瑠璃寺の九体仏

連載・京都宗教散歩(20)
ジャーナリスト 竹谷文男

浄瑠璃寺本堂に並ぶ九体阿弥陀如来坐像(部分、同寺発行『浄瑠璃寺』11頁より

浄土往生を願い
 「望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」と平安時代、自らの人生を誇った藤原道長は晩年、九体の阿弥陀仏を収めた壮麗な法成寺(ほうじょうじ)を京の鴨川の西に建てた。臨終に際しては、自分の指と九体の阿弥陀仏の指とを糸で結び、釈迦の涅槃と同じように枕を北にして西向きに横たわり、念仏を唱えながら死を迎えたという。末法の世にあって浄土に往生することを願って、極楽浄土の九段階に対応するという九体の阿弥陀如来像が、盛んに造られた。
 吉田兼好は、道長の九体仏を見て「いと尊くて並びおはします」が、「いつまでかあらん」(『徒然草』第25段)と無常の世を嘆じた。そして、ほどなく戦火や災害によって法成寺は灰燼に帰し、九体あった阿弥陀仏は一体も残らなかった。ただ、南山城にある浄瑠璃寺(京都府木津川市、真言律宗、別名九体寺)にだけは、木造の九体仏が当時の姿のままで今に残されている。
 浄瑠璃寺を訪れるには、JRの加茂または木津駅から路線バスに15分ほど乗る。浄瑠璃寺の門をくぐって池の前に出ると、多くの人はまず全景を見るために右手の本堂(国宝、藤原時代)を通り越して池を廻り、三重塔(国宝、藤原時代)の基部に着いて、そこから池と向こうにある本堂とを眺める。周囲を雑木林が囲み、池には本堂が映り、心なごむ山里の風景だ。
 隠れ里にあるような浄瑠璃寺は、池をはさんで東側に三重塔が建っていて薬師如来像を収め、西側に本堂が建つ。本堂は横に長細く、その中に九体の阿弥陀如来像(国宝、藤原時代)が横一列に座している。また、北側には、真言密教の最高位の大日如来坐像が潅頂堂に収められている。この配置は、日本で最初に九体の阿弥陀仏を祀った道長建立の法成寺と共通する。
 薬師如来は東方浄土の教主で現実の苦悩を救って西方浄土へと送り出す遣送仏で、東方浄土は「浄瑠璃浄土」と呼ばれている。阿弥陀如来は西方にある理想の世界「極楽浄土」で人々を迎える来迎仏である。寺の名が浄瑠璃寺なのは創建当初の本尊が薬師如来だったためで、通称の「九体寺」は阿弥陀像に由来する。本堂の中には九体の阿弥陀如来像が池を、つまり東の薬師如来像の方を向いて座っている。

浄瑠璃寺本堂の全景


九体の阿弥陀如来坐像
 本堂の九体仏の背中側は壁造りであるが、その正面である東側は板扉と障子で外と区切られている。九体仏は暗い壁を背にして明るい東側の障子に向い、九体仏から障子までは数メートルほどである。本堂に入ると外の光は板扉と障子を介して、ほの暗くまたほの明るく阿弥陀仏を照らす。参拝者は障子を背にして暗すぎもなく明るすぎもない柔らかな自然光で、阿弥陀如来坐像を拝することになる。浄瑠璃寺の魅力は、藤原時代の九体仏を堂内で、障子を通して入ってくる自然光のもとで間近に拝せることだ。現在は、その内の2体が「特別展・聖地南山城」のため奈良国立博物館に展示されている。
 この九体の阿弥陀仏は、造られた藤原時代以来、八百年あまりにわたって山里の庶民の願いを日々聞いてきた。人々の願いをむげに拒絶することもなく見下ろし、しかし、聞いたが故にとげさせてあげようと無辺世界を見渡していたであろう仏たち。その仏としての仕業によって、如来自身が悲喜こもごもの思いを抱きながらも黙して語らず、座り続けてきた。博物館に置かれて鑑賞されるのではなく、山里の寺で人々の素朴な願いを日々聞き続けてきた八百年の積み重ねが、浄瑠璃寺の九体仏にはある。
 ここで願いをかけた庶民の多くは、九体仏を背に本堂の縁側に腰掛け、塔や池を見ながらおしゃべりを楽しんだかもしれない。それを聞いていた阿弥陀仏は、九体仏を造立し糸で結び合わせて臨終を迎えた道長と同様、縁側の庶民も救いたいと願った。凡夫の信心と弥陀の本願について恵心僧都は言った、「信心あさくとも本願ふかきがゆえに、頼まば必ず往生す」と(横川法語)。
 作家の井上靖はかつて年下の友人と一緒にここ浄瑠璃寺を訪れ、九体仏に対面したときの「静かな陶酔と昂奮」を熱く語り合ったと書いている(『文藝春秋』昭和46年2月号「美しきものとの出会い」)。氏はどのような陶酔と昂奮であったかは書いていないが、その友人は数年後に戦死したと述懐している。
 人々が浄瑠璃寺に鎮座する九体仏を前にして、ある種の静かな興奮を感じるとすれば、それは人々が人生において考え、時には挫折したのと同じように、この阿弥陀仏たちも衆生済度の営みを続けながら、人々の思いや行いに満足し、あるいは失望し、しかし飽きることなく人々の願いを聞き続けてきたその仕業によって、如来自らが悲喜とりまぜて味わいながら過ごし深めてきた八百年の、仏としての“生涯”、その八百年の積み重ねを、見る人たちが無意識に感じるからではないだろうか。(2023年7月10日付 801号)