菩提寺は浄土宗、学びは禅宗の寺

連載・宗教から家康を読む(2)
多田則明

竹千代が学んだ静岡市の清見寺

 静岡市清水区興津にある臨済宗妙心寺派の清見寺に、竹千代時代の家康が太原雪斎(たいげんせっさい)禅師らから学んだ3畳間がある。雪斎は禅僧ながら今川家の家臣で、今川義元の軍師として内政・外交・軍事に敏腕を発揮し、今川家の全盛期を築き上げた。人質ながら義元の後継者の一人として育てられた竹千代は、当時、最高の教育を受け、そこで培った情操と教養、つまり人間力が家康の人生を支えた。
 三河松平氏の始祖は浄土教の一つである時宗の僧とも伝わり、その縁からか松平家の菩提寺は浄土宗の大樹寺だ。平安時代末期の乱世において、修行や学習、寄付をしなくても仏の救いにあずかれるとする易しい教えを説いたのが法然で、それまでの貴族仏教から庶民仏教への転換を実現したことから、日本のルターとも呼ばれている。
 比叡山で学んでいた法然は43歳の時に専修念仏に衆生救済の道を見いだし、山を下りて東山の吉水に住み、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える専修念仏を広めた。それは、阿弥陀仏に帰依(南無)しますという意味。釈迦の教えは瞑想により悟りを開くことだが、それができるのは修行に専念できる僧侶くらいで、暮らしに追われる庶民には無理。そこで、いろいろな仏の中でも人々の救済を本願とする阿弥陀仏にすがればいいとしたのである。
 法然は貴族や武士との交流もあったので、その教えは彼らの間にも広まっていく。有名なのが坂東武者の熊谷次郎直実で、平家を追い詰めた一の谷の合戦で若武者の首を取り、その後悔から後に出家して浄土宗の僧になり、法然の出生地である岡山に誕生寺を開いた。このように情感豊かな仏教が浄土宗といえよう。

朝鮮通信使再現行列で清見寺で行われた国書交換

 一方、武士の間に最も広まったのは禅宗で、とりわけ栄西の臨済宗は鎌倉武士の心と知性を鍛える仏教として受け入れられた。その様子は今の鎌倉を歩くと一目瞭然で、建長寺を筆頭に鎌倉五山が林立し、まさに鎌倉は臨済文化の街である。
 権力への接近を避けた曹洞宗の道元と異なり、栄西は時には密教的な呪術も使いながら武士たちの心を支え、やがて武士道の根幹の教えとなっていく。さらに漢文を自由に操れる臨済僧は、外交などの実務で幕府を支えるようになる。
 仏教は日本への渡来時代から単なる一つの宗教ではなく、インド・中国が源流の学問・文化の総体で、芸術をはじめ建築、医療など当時の先端技術を伴っていた。奈良時代の寺はまさに今の大学で、修行僧はいろいろな大学や学部に通うように、多くの寺で諸学を学んでいた。例えば、空海はインドや中国の僧もいた大安寺に住まい、東大寺に通って華厳経を学んでいる。
 竹千代は雪斎から仏教だけでなく四書五経から孫子の兵法まで幅広く学び、坐禅により内省を深め、胆力を鍛えた。そこで培った心の広さが、後の三河一向一揆で一揆側に付いた家臣も許すことにつながる。織田信長なら容赦なく斬り捨てられた人たちだ。もっとも、一揆が鎮まった後に、拠点になった真宗の寺に改宗を迫るなど果断な武将でもあった。
 家康は戦に勝つたびに、敵側の優れた武将を取り込み、徳川軍を最強の軍団に育て上げていく。中心は三河武士だが、徳川十六神将の筆頭が浜松出身の井伊直政だったように、優れた才能を見抜き、抜擢することで成功していく。そうした人事の才が、現代の経営者からも尊敬されるゆえんだろう。
 将軍を後見する大御所なった家康は懐かしい静岡に駿府城を築き、清見寺を整備した。そして、徳川政権の国際的な公認を得る一環として招いた朝鮮通信使の一行を清見寺に泊め、富士山を見上げる駿河湾を船で回遊し接待していた。同寺には通信使が残した書などもあり、歴史的な通信使行列の再現も同寺を舞台に行われている。
(2023年3月10日付 797号)