「政教分離」を導入した島地黙雷

連載・近代仏教の人と歩み(1)
多田則明

西欧に学び明治の宗教政策を主導

島地黙雷

宗教=religion
 島地黙雷(もくらい)は明治時代に活躍した浄土真宗本願寺派(西本願寺)の僧で、ヨーロッパ諸国の政治と宗教の在り方を現地で学び、木戸孝允(たかよし)ら長州人との人脈を生かして、近代国民国家を目指す明治の日本に、今に続く「政教分離」を持ち込んだ人物である。また、それまで仏教用語であった「宗教」をreligionの訳語とし、宗教の概念を定めた功績も大きい。
 今日、私たちが接している仏教は、幾多の混乱を経た明治の宗教政策によって改変されたもので、古代から江戸時代まで続いてきた仏教ではない。その意味で、明治初期の宗教政策と仏教自身の改革が、その後の仏教に及ぼした影響を評価することは、国家と宗教、政治と宗教の関係を考える上で重要である。
 江戸時代のキリシタン禁令を主要な動機とする寺請制度によって、戦国時代末期に増えた寺院は、出生・死亡届や身分証明など行政の市民窓口のような役割を担うようになり、いわゆる葬式仏教と批判されながら、人々の暮らしに定着してきた。
 その一方、神社の多くでも神宮寺の別当などが実務を担い、神職を凌ぐ立場だったことから、国学者などから反発されるようになったのは想像に難くない。神仏分離令に続く自然発生的な廃仏毀釈には、そうした背景が大きい。
 江戸幕府がキリスト教を脅威と見ていたのと同じく、明治政府も開国によって流入するキリスト教に大きな危惧を抱いていた。欧米列強を視察するにつれ、各国の指導層が日本人とは比較にならないほど信仰熱心であることに、一様に驚いている。欧米のような激しい宗教戦争・対立を経験していない日本からは、想像を絶したからである。
 明治政府の指導層は、キリスト教のようないわゆる市民宗教のない日本で国民国家を成立するには、庶民の間にある素朴な天皇への崇拝心を生かすしかないと考え、神社神道の国教化を目指すようになる。それを理論的に支えたのが平田篤胤の国学派だが、学問だけで実務経験に乏しく、そのため、神道国教化は短時日で頓挫してしまう。
 これに対して、キリスト教に対抗できるのは仏教しかなく、中でも阿弥陀一仏の真宗こそふさわしいと主張したのが島地黙雷だった。さらにヨーロッパの宗教事情を見聞した島地は、信仰は個人の内面の問題とするキリスト教信仰の在り方に最も近い仏教は真宗であると確信するに至る。
 江戸時代の僧は、寺請制度の役割から武士と農民の中間に位置付けられ、それなりの特権を認められていた。その代わり、姦淫や肉食などの罪を犯すと重罪に処せられたが、親鸞以来、妻帯が普通だった真宗の僧は例外であった。
 四民平等を目指す明治政府は明治5年に、「肉食妻帯」勝手の太政官布告を出し、それまでの僧侶の特権をはく奪する。それに対して真言宗や曹洞宗の僧らから反対の声が上がったが、やがて消えてしまう。あからさまに言うと、それまで隠れてしていたことが公認されただけ、という事情もあった。当然のことと受け止めたのは真宗で、親鸞以来の非僧非俗、在家中心の信仰が普通になっただけである。

宗教政策の迷走
 明治元年、政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用。太政官に並ぶ神祇官を設置し、全国の神社、神主等はすべて神祇官の指揮を受けることにし、それまで広く行われてきた神仏習合を禁止するため神仏分離令を発した。政府の神仏分離政策は、文明開化当時の国民の精神生活の再編の施策の一環として行われたもので、修験道や陰陽道の廃止をはじめ、日常の伝統的習俗の禁止と連動し、仏教界のみならず、修験者、陰陽師、世襲神職などの多くが打撃を受けた。
 明治4年の廃藩置県後、政府は中央集権体制を固めるには、単なる神道国教化政策だけでは足らないとし、民間に勢力をもつ仏教や神道諸教派の力を利用するため、皇道宣布運動を展開することにした。江戸時代の寺請制度は廃止され、代わって国民を神社の氏子にして統制しようとしたが、うまくいくはずもない。
 神祇官は同年に神祇省に、5年には教部省に改組され、中央に大教院、地方に中教院、小教院を置き、同運動展開の中心とし、神職や僧らを教導職に任命し、国民への教化運動を進めることになる。大教院は東京・芝の増上寺に置かれ、造化三神と天照大神が祀られたが、実情に合わず迷走したにすぎなかった。
 明治の神仏分離政策は、明治5年の神祇省廃止・教部省設置における、明治初年から進めてきた祭教政一致の頓挫が着目される。これは特に平田派の国学者が主張する、古代にあった政体の理想が、近代国家形成の実情に合わなかったことが第一だが、実際には神道の伝統や性質から、宗教化・国教化が困難で、西洋列強が行う布教活動に対抗するには、精緻な理論を有する仏教僧の協力なしには日本の伝統宗教を守れないという事情があった。島地は、神道は道であり宗教ではないと批判している。

信教の自由を主張
 島地黙雷は天保9年(1838)周防国(山口県)佐波郡で西本願寺派専照寺の四男として生まれ、同郡島地村妙誓寺の住職となり、姓を島地と改めた。明治元年に、京都で大洲鉄然や赤松連城とともに、坊官制の廃止・門末からの人材登用などの西本願寺の改革を建白し、それが認められると、改正局を開いて末寺の子弟教育に注力し、明治3年(1870)には西本願寺の参政に昇進している。
 明治5年に、西本願寺大谷光尊の依頼で、仏教徒として初めてヨーロッパ諸国を視察旅行した島地は、ついでにオスマン帝国やエルサレム、インドの仏跡も訪ね、旅行記『航西日策』を残した。
 帰国後、島地は政府が設けた大教院の「三条教則」を批判し、政教分離、信教の自由を主張、神道の下にあった仏教の再生と、大教院からの真宗の分離を図り、実現した。三条教則とは「敬神愛国、天理人道の明示、皇上奉戴と朝旨遵守」で、島地は例えば、敬神は宗教だが愛国は政治であると、ヨーロッパの政教分離の原則から批判している。

SONY大教院が置かれた増上寺 DSC

 島地の具申をきっかけに、神祇省は教部省に再編成、教育機関として大教院を設置、教導職には僧侶なども任命され、神仏共同の布教体制ができあがった。これは、西洋列強の推進するキリスト教の日本人への布教活動への対抗でもあった。列強の強い反発から、信教の自由の保証を逆に求められ、明治6年にはキリスト教禁教令が廃止される。
 ところが、神仏合同の布教には多くの無理があり、反発し合う傾向もあった。また、上から押しつけられた運動であると批判され、信教自由の声が高まるようになるに伴い行き詰まる。そこで政府も神仏合同の大教院による布教を停止し、明治8年には先に真宗が離脱した大教院を解散した。明治10年には教部省も廃止になって内務省社寺局に縮小され、その代わりに「神道は宗教ではない」との見解での神道国教化が政府に採用されるようになる。
 島地は西本願寺での宗務に加え監獄教誨や軍隊での布教にも尽力し、女子文芸学舎(現・千代田女学園)の創立など、社会事業や女子教育にも功績を残している。明治44年(1911)、74歳で没した島地は生涯、キリスト教に嫌悪感を抱いていたが、晩年、実子の島地雷夢がキリスト教に改宗し対応に苦慮するという皮肉な人生になった。
(2023年3月10日付 797号)