高杉晋作  奇兵隊を創設し長州藩海軍総督に

連載・愛国者の肖像(4)
ジャーナリスト 石井康博

高杉晋作

 19世紀初頭、東アジアではイギリスと清の間でアヘン戦争が勃発し、敗れた清が屈辱的な南京条約を締結するなど大きな時代の波が押し寄せていた。
 高杉晋作はアヘン戦争1年前の天保10年(1839)に今の山口県萩市で生まれた。父は高杉小忠太、母はミチ。高杉家は武田小四郎春時という清和源氏の流れをくむ始祖の時代に毛利元就に仕え、それから代々毛利家に仕えた名門の家系であった。
 長州藩の上級武士の長男として生まれた晋作は、家臣子弟の藩校「明倫館」で学んだ。しかし、物足りなさを覚え、親に内緒で吉田松陰の私塾である「松下村塾」に入門する。
 そこで晋作は、松陰の広い見識と先見性に影響を受けた。塾は身分を問われず学問できる場所で、松陰は塾生とも対等に議論する自由な学風で、門下生に敬愛されていた。塾は久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、山田顕義など幕末から明治にかけて活躍する人物を輩出する。晋作と久坂は「松下村塾の双璧」として競い合うライバルで親友だった。
 安政5年(1858)幕府は、孝明天皇の勅許なしで、日米修好通商条約を結び、続いて列強とも同様の不平等条約を結ぶ(安政の五カ国条約)。幕府が天皇の意に反して条約を結んだことを知った松陰は大いに憤り、老中の暗殺を企てた。そのことが藩に知られて松下村塾を閉鎖され、松陰は危険人物として投獄される。翌年幕府の命で松陰は江戸に送られ、伝馬町の牢屋敷で処刑された。
 江戸で学問を続けていた晋作は、金銭を差し入れるなど師に尽くした。松陰は感謝し、「老兄、江戸にありしのみにて大いに仕合わせ申し候、御厚情いく久しく感銘つかまつり候」と晋作に手紙を送っている。後日、師の死を知った晋作は志を引き継ぐ決意をした。
 文久2年、晋作は藩命で、薩摩藩士五代友厚らと共に上海へ渡航した。太平天国の乱を経験し、清の民が列強に使役されている現実を目の当たりにし、日記に「我が国もついにはこの様にならないとも限らない」と記している。
 長州藩では、幕府が諸外国の間に締結した条約を断固否認する方針だった。晋作は帰国後、桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞らとともに江戸で尊皇攘夷運動に加わるようになる。そして、薩摩藩が大名行列を横切ったイギリス人を斬る「生麦事件」が起こると、晋作は同志と共に幕府が品川御殿山に建設中だった英国公使館を焼き打ちした。
 そして長州藩は攘夷を行動に移し、下関・関門海峡を通航する米・仏・蘭の外国船を砲撃する。だが、米・仏の軍艦による反撃で砲台と軍艦は破壊され、仏兵に上陸されるなど、長州は敗れた。
 晋作は藩主に軍備を立て直すため「奇兵隊」の創設を提案する。少ない兵力で敵の虚をつき、神出鬼没な動きをし、奇をもって敵を制する「奇兵」の隊を作ると。兵士には農民や町民などの庶民も登用するという、当時としては画期的な内容だった。奇兵隊は、その後の戦いで諸隊の中核として活躍し、倒幕に大きな役割を果たした。
 京都で政変が起こり、薩摩藩、会津藩ら公武合体派が尊攘派を京都から追放した。長州藩内では京都への進軍を目指す「進発派」が現れ、晋作はやめるよう説得したが、逆に独断で京都へ行ったことが咎められ、投獄されてしまう。獄中では松陰を偲び、「先生を慕うてようやく野山獄」という句を詠んでいる。
 元治元年(1964)6月、長州藩士と尊攘派浪士が新選組の襲撃を受ける「池田屋事件」が起こる。長州藩は実力行使のため京都へ軍を派遣し、薩摩と会津の軍と交戦したが戦いに敗れ、多くの戦死者を出し、盟友の久坂玄瑞は自害した(禁門の変)。牢獄にいた晋作は毎夜、久坂の夢を見たという。
 関門海峡を封鎖された米・英・仏・蘭の各国は長州藩に対して再び軍事行動に出た。軍艦と兵隊が下関に押し寄せ、これに対抗して長州藩は戦うが、また敗戦に終わった(下関戦争)。謹慎中だった晋作は藩に呼び出され、藩主代理として和議交渉に送られた。長州は下関海峡の通過や水、食料、石炭などの補給などを約束したが、彦島租借の要求には断固として応じなかった。もし、彦島の租借を認めたら、日本が植民地化されたかもしれない。晋作は日本を守ったのだ。
 禁門の変の敗戦で長州藩は「朝敵」とみなされ、追討令が下された。その頃、長州藩内で幕府に従おうとする勢力(俗論派)が実権を握り、尊皇攘夷を進め、幕府に対抗する「正義派」の家老・参謀は切腹・処刑させられた。晋作は俗論派勢力を打倒すべく下関の功山寺で決起する。志を共にする2隊80人で挙兵し、下関の会所を襲撃、海軍から軍艦を奪い、地上戦にも勝利してクーデターは成功、正義派は再び政権を握った。
 藩論を「武備恭順」に統一した長州藩は、政治・軍事を近代化させていく。西郷隆盛は土佐の坂本龍馬を通じて、長州藩との連携を画策し、長州藩は薩摩藩の名義で蒸気船や武器弾薬を密輸入するなど両藩は接近、慶応2年1月に薩摩と長州は正式に提携を決定した。
 同年6月、幕府は再び長州に軍を進めた(第2次長州征伐)。晋作は海軍総督に任ぜられ購入したばかりの軍艦「丙寅丸」に乗り組み、4隻の幕府の軍艦を撃退した。また、対岸の九州の幕府軍を3度奇襲し、小倉城を占領した。将軍徳川家茂の病死を受け、幕府軍は解散、9月には休戦協定が結ばれ、長州藩が勝利した。これが翌年11月の大政奉還につながる。
 肺結核にかかっていた晋作は8月末には戦場から離脱し、床に臥せるようになっていた。10月になると晋作は下関郊外の桜山に東行庵を建て、療養に専念した。見舞いに来た同志の井上聞多(馨)らに「ここまでやったから、これからが大事じゃ。しっかりやってくれろ」と繰り返したという。そして慶応3年4月13日の深夜、晋作は27歳8か月の波乱万丈の生涯に幕を閉じた。皇室と日本を守るために全てを捧げた人生であった。
(2022年12月10日付 794号)