人と自然にどう向き合うか
2022年12月10日付 794号
2019年に発生した新型コロナウイルス感染症の流行は3年を超え、各国の対策により世界規模ではほぼ落ち着きつつある。世界保健機関(WHO)は、将来、感染症のパンデミックが発生した場合の対応について、コロナ禍で得られた教訓をもとに、ワクチンを途上国に行き渡らせる仕組みや、感染症拡大を防ぐためのWHOの権限強化について、条約策定に向けた協議を始めるという。
一方、ロシアによるウクライナ戦争で露呈したのは、責任ある常任理事国が国連憲章を破るという国連の構造的問題で、国連改革も早急に議論されなければならず、グローバル化時代の政治哲学が求められている。
今、私たちが直面しているこれらの課題の基本にあるのは、人と自然、そして人と人との付き合い方の見直しである。
近代の終焉
アジア太平洋放送連合(ABU)が優れた作品を表彰する「ABU賞」のテレビ部門で、新潟県中越地方の棚田で自然の厳しさや美しさをとらえたNHKスペシャル「新・映像詩 里山 新潟の棚田 豪雪と生きる」が選ばれた。人と自然との好ましい付き合いから生まれたのが里山である。
再放送された同作品を見て、自然と共に生きる中から形成されてきた人々の暮らしと文化、そして毎朝、ブルドーザーで各戸の玄関先まで雪かきをしている高齢者の「地域が塊のようになって生きている」との言葉が印象的だった。とりわけ地方に暮らす人たちは共感しただろう。
そうした風土に民俗宗教である神道が生まれ、渡来した普遍宗教である仏教が根付き、神仏習合・神仏補完の日本的宗教が生まれた。古代インドの人たちが求めた「梵我一如」の日本的展開とも言えよう。庶民に浸透する過程で仏教諸宗派が生まれたが、いずれもそれぞれの道を通し仏の心に至る教えである。神仏の心に少しでも近づくことで、利他行が自然に、感謝を伴って行えるようになる。
自然の中から生まれてきたのが人類である以上、そうした心性は世界に共通している。例えば、パウロは「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる…」(ローマ人への手紙1・20)と、ギリシャで発達した理性ではなく、幾多の歴史物語を通して語り伝え、培われてきた信仰によって自然を賛美した。それは、最澄や空海が唱えた「山川草木悉有仏性」に通じる。
現代を近代の終焉の時代ととらえると、今は近代の始まりから学びなおす時かもしれない。その一つの現象が17世紀の哲学者スピノザに関する著作の相次ぐ出版である。その著者の一人で哲学者の國分功一郎東京工業大学教授は「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」とスピノザの思想を評している。
デカルトから約30年遅れて生まれたスピノザは、ユダヤ教のエリート教育の上に当時の自然科学の知見を踏まえ「神すなわち自然」を唱え「汎神論」として知られている。デカルトが神と我を対峙させたのに対して、スピノザは神の中にある我から思想を展開した。その思想的系譜は、イエズス会の司祭でありながら北京原人の発見にも加わった古生物学者で、後にキリスト教と矛盾しない進化論を唱えたテイヤール・ド・シャルダンにつながり、彼の説は最新の「超進化論」と驚くほど符合している。
近代国家の始まりとなった国家理性の考え方が16世紀に現れた背景を、政治学者の大竹弘二南山大学准教授は「近代初期の著作家を悩ませていたのは、宗教が神学が規範としての拘束力をもたなくなったところで、いかにして安定した統治と支配を実現できるかということであった」と説明する。そこから現在を考えると、国際社会の安定した統治を可能にする政治哲学が、今こそ求められていると言えよう。
それはこれまでの宗教・文化史を踏まえながら、科学的な成果も収めるものでなければならない。かつエリート層だけの思想ではなく、広く大衆が受け入れられるもの。別の言い方をすれば、そのレベルまで人々が発展することが求められ、視野に入ってきている。そう考えると、人類はまだその可能性の一部しか花開かせていないのかもしれない。
人に寄り添う
歴史を俯瞰すると、宗教は幾多の試練を経ながら時代と社会に対応して変化し、発展してきた。宗教をめぐる今の日本の状況も、その一つと考えれば理解できよう。問題は、どの方向に変わっていくかである。
多様な人たちが共に暮らす以上、自律と相互理解・協力が求められるのは当然で、権威的にではなく「人に寄り添う」教えと実践も不可欠である。
さらに人々が本心からの喜びを感じるのは自身の成長を実感するときで、その手立てを宗教が編み出してきた歴史を、今に生かすことであろう。ともあれ、コロナ禍とウクライナ戦争の終結を祈りたい。